曽野綾子を読む・・・・12・・・完

「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個人的記録」から・・・
第12回
その37;;;;
安全地帯で乞食する。
「避難先の当てがなくても、私はともかく安全な地帯まで逃れて、もし食えなければ、そこで乞食をやる」曽野綾子氏が、ある週刊誌に書いたフレーズであると言う。日本人たちは、乞食というものを見たことがないが、殆どの先進国、中進国の繁華街には、乞食の姿が見える。
私(曽野綾子)は、1986年、原発事故から13年を経ったチェルノブイリの30キロ圏内の居住禁止区域内にベラルーシ側から入った。引退したロシア正教司夫婦、ウオッカ好きの老人等の数十家族が住みついていた。住民は大体高齢者で意気軒昂、住み慣れた所に住みたいから帰ってきたのである。放射能に汚染された森に生えるきの子を採り、家の周りでジャガイモを作り、自然の恵みの豊かさを楽しんでいた。
植民地で、終戦を迎えた日本人の全てが、危険を冒して祖国を目指したのではない・・・残留孤児は、親の力尽きて、取り残されたり、親が中国人に預けた「子ども」だが、自発的に、そのまま中国人に、朝鮮人になった人々も多い筈である。勿論、幸せを掴んだ人もいれば、「帰国しておけば・・・」と、臍を咬む思いで、生涯を終えた人もいるだろう・・・私の父も、戦後半年後に「嘱託」として採用され、子供達は朝鮮で育てなさい・・・と、勧められたと言う。しかし、父は、「共産主義」を信じていなかった・・・赤旗や改造なども、兄弟から借りて読んでいたが、弟や兄との対話の中では、「英雄気取り」の戦後派正義感への嫌悪は隠さなかった。
また、親の止める手を振り切って「八路軍」に身を投じて、紅軍の中で医学を学び、紅軍の“No2(医療分野)”まで登りつめた女学生のドキュメントもNHKにはある。「去るか・・・」、「残るか・・・」、それは己の決心であり、己の運命は、己のものである・・・
況や、老い先短い高齢者が、仲間と別れたくないの、馴染みのない土地は住み難い・・・のと、不可能な要求を政府、自治体にすることを戒めているのである。自分で決めないから、結果には「不満」しか残らない・・・
その38;;;
誰絵も答えの出ないことを、誰かに問うてはいけない・・・原発事故の20年後がどうなるか、誰にも断言できないのは、それだけの時間の経過を見た人がいないからである。
「人間は、体験する時間を与えられなかったことについては、明言することはできない」・・・ヒロシマは、原爆が投下された後、60年は草一本生えないと言われたが、今日の広島の繁栄を見ると、それは、不正確な予測だが、その予測を咎めることは出来ない。
だから、人は、自己責任において、住みたい所に住んでいいのだと、思う。
分かり切ったことだが・・・これが理解できていて、理性の背後に、その理性を持っている人は、絶対に口にしない・・・行政が強制すれば、黙った従うだろうが、協力もしないだろう。何故なら、行政担当者の傲慢な態度こそが、その「無知」の顕現であるからだ・・・そして、その失敗の可能性も見えている・・・・思い付きの、見せかけの「政論」に踊る人間の姿は、その心算で見れば、滑稽この上ない滑稽さを露呈するものなのである。全ては、「自己責任」の上に日々が構築され、日々に崩れ、その崩れかかった瓦礫の上に明日が築かれるのである。己の今日に、幾ばくかの危うさを感じて生きてこそ、多少なりとも「正常」なのである。その「正常」さに、幾ばくかの「自己責任」で裏付けをして、当面の危険を回避する・・・・住みたいところに住む・・・と言うことの背後なのだと、私は思う。
その39;;;;
一切の理不尽を許さななかった結果は・・・今までの日本の暮らしは、一切の理不尽を許さなかったところがある。すべてのことには、明確な原因があり、その原因を正せば、災害は取り除かれる・・・という発想だった。
天災は、そもそもの本質において、その責任を誰にも持ってはいけない性質のものだが、その災害さえ、人知と努力で取り除かれると考えていたのだ・・・・。
いわゆる「正義感」と言う奴である。もの毎の一面を理解するのは早い、そして性格である。しかし、物事は立方体であり多面体である、他との連携の中で存在している。その詳細に「人知・人智」は及ばない。誰も責任を負えない・・・だから、西欧のマネージメント手法が導入された時、「職務記述書」が登場した。私は、作業精度・導入の時に、数日間の徹夜の中で、数十人の「職務記述書」を個人ごとに作成した経験がある。職務の一行毎に、職務の評価がなされ、基準となる報酬が設定される。しかし、そこに「責任」関係が記述されなかったことに不思議な感覚を持ったものである。
つまり、「結果の責任」は、だれにも課せられないと言うことだったらしい。「職務」に課せられた責任に、「無事故」、「無謬」は含まれない・・・事故が、単純な事象として把握できるものでもないし、発生するものでもないからである。
今般の「東日本大震災・津浪」の被災は、多少なりとも、我々に、そのことを教えてくれたのだと思う。
その40;;;;
正論を通すよりも実益を選ぶこと・・・児童108人中、34人しか助からなかった・・・殆ど全員が無事だった小学校も存在したのに・・・石巻大川小学校。
小学校の建物自体は、カーブした壁面をもつ、リゾートホテルを思わせる瀟洒な造りだが、海抜1〜2メートル。しかし、学校の裏には、急峻な杉林があった・・・しかし、大人でも登れない様な急峻さの迫る山だった。
しかし、どんな山でも、実質的に子供達が2人づつ並んで登れるような、緩やかな避難用の階段か坂道は造れたはずだ。
(予算)を自治体に要求して時間を失うよりも、父兄の個人的な寄付や奉仕的な肉体労働で避難路を作ってもよかっただろう・・・。行政がやるのが“筋”だなんどと言う正論を通す前に、人間が実益を選ぶのが、(日本人の)昔からの生き方だったように、私は思う。
正に正論である。
話は、随分と軽いものになるが・・・昭和30年代後期に開拓された、私の住む(もう50年)団地は、北九州の鉄鋼企業・社員の団地として発足した。今に思えば、家も土地も安かった・・・当時は、手取り収入の20%の割賦返済・・・が、道路の舗装はなく、家の周りの側溝は自己負担・・・家並みの側溝の幅も深さも不揃い・・・だった。人口3万人余りの福間町に、生活環境の整備をする財政的力は乏しかった。それでも自治体は頑張ってくれたのだが、せめて、駅までの通勤道路を・・・と、請願を続けても、行政も、無い袖は振れない・・・選出の町会議員の努力にも限界があった・・・そこで、道路・側溝工事の一部を住民で負担しようではないか・・との提案がなされた。当初は、25%・・・入居した各家庭には、家庭なりの整備費が必要、また、子供の教育費の負担も目の前に迫っている・・・私は、まだ独身で入居していたので、その話し合いには参加していない・・・住民は、苦しい判断を迫れた。町内に新しい団地も誕生し、人口も増えて、負担は少しづつ減少・・・平成に入る頃には、5%程になっていたが、もう道路の心配は要らなくなっていた。それでも、昭和50年頃には、新しい入居者から、「何故、こんなことをするのか・・・」との激しい突き上げが自治会にされていた。法律に詳しい方もいて、突き上げは厳しかった。「法」の建前は正論である・・・少なくとも、昭和50年頃までは、近隣の自治体からは羨望の的であった。しかし、当時、団地に「クルマ」は2台しかなかった・・・今は、全家庭に、それも、2台、3台とある。「どろんこ道」を、思い出として語る方々も、多くは黄泉にある。

正論を通す前に、実益を選ぶ・・・この先見性のある先輩の選択を、曽野綾子を読みながら、思ったことだった。

<これで、終り>