飲酒運転撲滅の為に・・・・

福岡市の3児を、橋から川に突き落と溺死させた、福岡市・職員の青年の「刑」が確定した、「禁固20年」。数年前の事故だが、市民の間では殆ど忘却の彼方だろう。当初は、救急隊・隊長の父親が自殺した・・・等の、まことしやかな噂が流れたりしたが・・・真赤な偽情報だった。誰が流したのか、発信地は何処か・・・市民レベルでは、分かり様もない。しかし、その噂が流れた辺りから、事件の「風化」が始まっていたのではないだろうか・・・私の勘ぐりなのだが・・・該青年の刑をいくらかでも軽くしてやりたい・・・そんな心情から生れた、噂だったのかも知れない。

この事故の前に、高速道路で、飲酒運転のトラックに追突されたクルマが炎上し、その中で二人の幼い子供を焼死させられた夫婦がいて、危険運転・・・なかんずく運種運転の危険性を訴えるcampaignを、夫婦二人で、しかも、若干の支援者に支えられながら、殆ど孤立無援で訴える姿があった。しかし、世間の目は冷たかったし、マスコミの扱いも軽いものだった・・・勿論、警察当局も、直ぐには、賞罰の強化に動き出す気配も見せなかった。その数年後の福岡市の該事件である・・・危険運転、飲酒運転への関心が一挙に盛り上がった・・・が、飲酒運転の減少する気配は、現在に至るも「ない」と見るべきだろう。況や、危険運転に至っては、取り締まる警察官が、「クルマ好き」だからだろうか・・・一斉取り締まりのマナーも、優しいものであり、運転者の自覚を促すものにはなっていない。特に、福岡県、福岡市の「飲酒運転・事故」の件数に減少の傾向は見られない・・・。
この二つの事故が教えたもの・・・・それは、「泣き寝入りをスルな!」だったと思う。恐らく、飲酒運転が根絶出来ないまでも、潜在的には、この家族の、悲しみをエネルギーにした活動で、多くの命がすくわれていると・・・私は考える。

その果ての、この「刑」である。3人の幼児が殺されて、「過失致死」の扱いはないだろう・・・と、私は思うのだが、現行の交通法では、その領域になるらしい。ならば、「飲酒運転・殺人罪」としての検挙も制定されるべきではないか。路上強盗や、怨恨殺人では、3人以上を殺せば「死刑」が、少なくとも求刑される・・・飲酒運転で、前を行くクルマに追突させ、そのクルマに幼児が乗っていたことを知らなかった・・・そんな言訳が通用するのは、「人力車」の時代ならいざ知らず・・・そんな勝手な判断が、刑を軽くする・・・刑事罰とは何か・・・飲酒運転は、無法地帯の概念でしかない・・・と、私は思う。
この青年・・・有無を言わせず「死刑」であるべきだった・・・。

福岡市を除けば、福岡県各地は、「流れ者」の街・地域である。北九州とその周辺にしろ、南部の大牟田あたりも、「炭坑」に流れ着き、製鉄業に流れ着き・・・・江戸時代の後半から、明治、大正の時期に、激しい人口増加をした土地である。特に、北部九州一帯に人口が増えたのは、大正以降ではないのか・・・言うなれば、4代以上、この地に住みついている家族は、まだ少ないのではないか・・・「地域」と言う概念が、単なる「エリア」として存在しているだけで、エリア内の、地域の、人間の絆としてのエリアには、まだ成長していないのだと私は思う。前を歩く人、行き交う人にも、野良猫、野良犬程の価値しか持ちえない殺伐とした空気の中に人々が住んでいる・・・言い換えれば、野性的な地域であり・・・その野生の中で、クルマを運転しているのである。故に、後ろから追つして海に突き落としても、殆ど反省がないのである。
行き交う人の表情に、行き交うクルマの走行に・・・その人の、運転する人の「人肌」を感じる様になれば、アクセルを踏む行動にも慎重になるだろうし、何処かの駐車場で一緒になれば・・・と、其処で交わす話題の想像もできるのではないか・・・・そこに、「人」を感じることができるのだと思う。

飲酒運転の撲滅・・・クルマの中にあっても、其処は社会であり、世間であり、己が、紳士であり、淑女であることを要求されていることを、お互いに忘れない、地域が、エリアが作る環境である。外科手術では不可能な地域医療の概念が要求されるものであろう・・・。セコハン的時代感覚からの「脱皮」が要求されているのであり・・・その自覚が無いままに「殺人」を、何のてらいもなく行う犯罪・・・やはり「死刑」しかないだろう。飲酒運転の事故が、「過失」として扱われることは、絶対にあってはならない・・・と、私は考える。