議員宿舎は必要なものか・・・

議員宿舎・・・必要なものか?・・・との議論は虚しい。むしろ、議員が、選挙区との間を毎週往復している現実を考えるべきだろう。彼らが言う程に、彼等は東京には生活していない・・・もし、根が生えた様に東京に在住するなら、それは地元の支援者が、愚衆だからである。愚衆の集まる街の政治的不満などはメディアが、その愚かさを余さず報道する・・・これはメディアの責務であろう。複数のメディアが口裏を合わせるのも、面白いかも知れない。
東京在住が多いのは、大物議員、古参議員なのだろう。故に、汚職がらみの事件が多い。しかも、選挙区との往来に必要な交通費は、全額国費(飛行機は回数に制限があったと思うが・・・)。多大な建設費で造った新幹線・・・最も利用すべき国会議員が、最も使っていないのではないか。東京〜鹿児島間でも数時間・・・・快適な車内で資料を読んだり、知性を高める読書も可能・・・あるいは、民情を理解するチャンスでもあるだろう・・・。

江戸時代は、各藩の藩主が「上屋敷」に居住し、臣下の多くが、「下屋敷」に居住した。それでも、一般武士は、屋敷内の「長屋」住まいだったのである。国会議員の意識の中に、参勤交代の江戸勤務の気分でいるものが多いのだろう。江戸の空気を吸った中の、僅かな人材が、そのネットワークで、討幕を果たし、新しい日本を創出したが、殆どが、低劣な文化だけを地方に伝播させた。泡沫国会議員が、その現代版であろう。

また、植民地の企業は、比較的整った、あるいは管理者社員には、内地に比べれば、豪華な社宅を準備した。一つは「保安」の観点から必要だったのであろうが、欧米の「租界」とはまた違う地域。社会だったのではないかと、私は思う。「租界」とは、法的な優位が特徴ではあったが、現地の人々・・・特に下層の・・・との交流も盛んに行われていたのだが、植民地に進出した日本企業の「社宅」は、私の知る限り、現地の人々には「オフリミット」の地域だった。最後の体験が、興南・北柳亭里の「社員社宅」であり、敗戦の後に押し込められた「朝鮮人社宅・・・父は、雇員社宅と言っていたが・・・」が、窓ガラスがなく、暖房はオンドル、そして屋外便所(汲み取り)、共同の水道蛇口だったことを思えば、世界でも稀な「差別」社宅であり、大きな「格差」でもあったと思う。

私は、この「格差」感が、国会議員の一人一人に存在するのではないかと・・・疑う。つまり、彼等は、植民地・東京に出張っているのであり、東京人とすら交わろうとしない“自称・エリート”に成り下がっていて、時に選挙区に帰れば、その虚勢を鼓舞する・・・党首や代表と一緒の写真に写り、己を大きく見せることだけに専念するのである。恐らく、東京では東京人と交わらず、選挙区では支援者以外と交わらない・・・東京も選挙区も「植民地」・・・得体の知れない“議員”として、国会の議席に座しているだけ・・・・。

議員宿舎を廃したら、彼等は、割安な集合住宅、あるいは、多少不便でも都心を離れた古民家を宿とするのではないか。そして、近所の方との交わりが生れれば、自らの選挙区の人々との生活の違いが見えてくるであろうし、マスコミの世論調査を頼らずとも、自らの政治的民意を探る技術も身につけることが出来るのではないか。

また、テロ対策としても、集合住宅に集合して暮らすのは、襲撃された時の被害が大きい。都内、関八州に散って住居すれば、テロリストの行動を制圧することにもなるのではないか・・・・何を置いても、政治と市民との政治的距離の短縮には、議員宿舎の存在は阻害要因でしかない・・・・人見知りの議員には辛いかもしれないが、朝晩市民との挨拶の中で政治をやってもらいたいと、私は思う。