纐纈一起教授の苦汁・・・とは・・・

BSフジTV・プライムニュースに出演の地震学者・・・東京大学・纐纈一起教授・・・終始俯き加減・・・今回幾人かの学者のTV出演光景を目にしたが、これほど深く反省の気持ちを見せてくれた学者はいない。概ね、多くの学者・評論家が、「起ったことはしかたがない・・・」との表情。酷い人は、地震もまた政府が悪いと、社民党顔負けのコメントさえする学者・評論家もいたことと考え併せると、雲泥の差とは、このことだろう。
それだけに説明は懇切丁寧を極めたが、説明者の説明が親切であればあるほど、この番組のキャスターは、これでもか、これでもか・・・と、馬鹿な質問を繰り返す。それが、教授の説明を混乱させ、私の様な視聴者を惑わせる。彼等は、事前に大凡の説明を聞き、それに基づいてストーリーを組み立て、時間配分をしているのだから、余計な質問は不要なのである。ゲストが、説明を省かない様に、あるいは、欠落させないように、進行を心がけるべきなのだが・・・あたかも、ゲストを攻め立てるのが、自分達の役目だと言わんばかりに、ゲストを攻め立てる・・・・時折ゲストが、そんな筈では・・・(ない)のではと、怪訝な表情を見せるのが気の毒である。

「M9」の判断を決断できなかったことが悔やまれるらしい。しかし、過去の事例・・・と言っても確実な計測データがあるはずもない・・・から、それ(M8)以後の地震に「M9」の地震がなかったとの判断で、M9の予報を流し得なかった・・・これが真相らしい。

M9とM8・・・マグニチュードは「対数」だから、この差は、数十倍にもなるのだそうである。しかし、それが地域住民に理解されているかと言えば・・・それは“No”だろう。M8でも相当な津波であったはず・・・その余告で逃げなかった人々が、M9の放送で逃げたのか・・・私は怪しいと思う。結果に大きな差はなかったのではないか・・・そもそも、貞観、明治の津波で、海岸に家を建てるな・・・と言うのは、地域の知恵になっていたはずである。それが、便利を求めて、危険を忘れた・・・・沖縄普天間の滑走路の延長上に、「家」を建てて、「基地反対」を叫ぶ新住民に比べれば、罪は軽かろうが、大同小異ではあるだろう。

教授は、地震予知の難しさは、次の三点だと言う。・・・地震学の三重苦と言う。
①実験が出来ない。
    出来るはずがない。科学とは、なべて「実験」を、その基礎条件とする。実験が出来なければ、本来予測も不可能なのである。その意味では、予測しろ!・・・と言うのが、無謀なのである。
②データが出来ない・少ない。
    実験室、あるいは、プロトタイプに依る実験は不可能であり、現象が、地球の岩盤、海底であってみれば、地震発生の、メカニズムを究明する様な、データを得る事は殆ど不可能であり、大きな地震程、その発生頻度が少なく・・・幸いなことなのだが・・・発生予測に使える精度のもを得るのは不可能に近い。
③理論構成が難しい。
   ①、②と重複することから、理解は簡単であろう。
つまり、予測は殆ど不可能・・・と、言う事である。

先人の碑に言う・・・「欲をかかずににげろ・・・!」と言うのが、現代に於いても大正解なのである。

津浪襲来の範囲は、これまでの記録、あるいは言い伝えから大きく外れたものではない。M9がM8でも、それ程の差はないのではないか。小学校や幼稚園の運動場に子供達を集めて、父兄が引き取りに来るのをまった・・・結果として、愚かさの極みだが・・・M9でなければ助かったと言うものでもないだろう。

TVの報道に観る、防災の日の「防災訓練」から、バケツリレーの風景が消えて、それ程の時間は経過していない。我々の「防災意識」の貧弱さである。津波の追われながら、交通法を遵守して、高齢者を助け妻を失った夫もいる・・・美談にもならないだろう。また、一人の子供も失わずに、全員が高台に避難した小学校、保育園もある・・・毎月、実践的な訓練を繰り返していたと言う。

人間が、生活を営むと言うのは、「その地」との折り合いである。津波を押しとどめようとするのは、殆ど無謀である。防潮の設備があっても、その閉鎖に時間的余裕があって有効なのである。余裕がなければ、逃げるだけである。

纐纈教授は、地域の人々を全く責めていない・・・己の判断が甘かった・・・と、反省しているのだろうが、私には、纐纈教授の学問的判断の前に、地域住民の覚悟が足らなかったのだと、思う。各地の、災害予備群・・・・政府を攻め立てて、己が命と交換するならともかく、命大事と思うなら、逃げるべきだし・・・普天間も、地主は東京の高級マンションに住んでいるのだと言う・・・「基地反対運動」に命を掛けるのなら、避けられない事故に依る「死」は覚悟しておくべきだろう。
東日本大震災&津浪の映像は、我々遠い、当面は安全な所に住む我々の心胆をもさむからしめた。尊い犠牲者には哀悼の気持ちを欠かすことは不謹慎だが、それ以上の不謹慎は、欲で、その犠牲の価値を貶めることである。生き残った者には、生き残った責任がある・・・亡くなった方々は、己が命で責任を果たした・・・生き残ったものは、私も含めて、強く、賢く生きることが、何よりの哀悼であると、私は念ずる。