オーム裁判・結審・・・・

オーム裁判・結審

長い裁判だった、しかし、光市の「母子殺害」事件の裁判と同様・・・長引かせたのは、弁護士の“体たらく”が原因だったと私は確信する。弁護士がしっかりした倫理観を有していて、その倫理感で弁護ができていたら、例え、被告の何人かが、「死刑」を逃れたとしても、国民は、一先ずの安堵をえたのではないだろうか・・・遺族にとって、不満がのこったとしても・・・反面で、我々に、「裁判の醜さ・・・被害者の尊厳を損ねても、己の主張の為に、裁判」を利用する魂胆を見せつけることになった。市民の学ぶものも多かったのではないだろうか。

夏目漱石が言うが如く・・・この世は人間が作っているものである。その人間が、完成品として誕生するものではない。松の木が、色々な方に「枝」を伸ばす様に、人間も色々な形に成長する・・・精神的に廃頽することも含めて・・・オーム、今はアレフ・・・あの雰囲気の中で、環境の中で、何が得られるのか・・・得られれば、社会復帰も可能であろうが、何時までも、集団の中に埋没しなければ生きていけない自分に気がつかない限り、一般社会への復帰は叶わないだろう。しかし、復帰の叶わない原因を、一般社会への「恨み」のエネルギーにすることは、迷惑な話であるが、加害者にならずとも、悪徳弁護士の生活補償的存在になることは、悲しい事であるし、戦慄を覚えることでもある。

13人の被告に「死刑」の最終判決・結審・・・被害者家族の団体が、彰晃の死刑は望んでも、その他の被告の死刑は望まないとのコメントを出している・・・「死」を以って全てが解決するものでもなければ、終わるものでもないし、終わらせてはならないものでもあろう。その意味では、彼等を生存させて、毎年、あるいは、時に応じて、この様な犯罪を生んだことについての反省の「糧」にすることは大切なことかもしれない。しかし、彼等の「仮釈放」、あるいは「再審」に関して、悪徳弁護士連に、チャンスを与え、法廷闘争を楽しませる恐れ無しとはしない。
あるいは、「死刑」が、英雄を生むことへの懸念もある・・・人間とは、何と煩わしい生き物か・・・。

あの「サティアン」の巨大な装置、建物・・・・あそこまで、警察当局、保安当局が放置したのは何故か?
また、サリン等の、製造の材料の大量購入をチェックするシステムが何故機能しなかったのか・・・子供をオームから取り戻そうと奮戦する「親」の姿を、何故、警察も政治家も、人権擁護団体も、無視したのか・・・その過程で、何をチェックすべきか・・・何故、何故・・・と疑問だけが深まる。

「顔つきは菩薩・・・・」しかし「その内面は 夜叉・・・・」・・・私達ひとりひとりの姿なのだが、少なくとも、己の中の「夜叉」は、己の理性で制御されなければならないだろう。