失言・放言・・・・寂しくなった「男の対話」を憂う・・・・

取材記者連だから女性もいるだろう・・・しかし、記事というのは、一つの決断で書くのだから、記者は、私は「男性的」な仕事であると思う。「男性・性」と「女性・性」・・・河合隼雄上野千鶴子の著書を参考にすれば、納得していただけると思うが、「世間話」や「井戸端会議」とは違うと言う事である。

この官僚の使った文言、発言は、女性侮蔑、侮辱と判断されるべきだろう・・・しかし、彼の教養のレベルでは、問題の核心を最も的確に表現できるものであったのだと、私は思う。教科書的な言葉・文言では聞き手の心情をゆすぶらない場合の、非常手段であろう。その意味では、彼が、その文言を口にしたのは、目の前の記者団の教養のレベルや知的水準からして、まっとうな文言では、理解できないだろう・・・との判断があったのだと思う。

41年間の私の経験・体験からも、私のレベルを前提にして言えば・・・どんなに言葉を尽くしても、問題の核心を理解してもらえない、あるいは、隠れた問題を察知して貰えない・・・そんな時に、シェークスピアの一節を語って納得して貰える、カントの一節で説き伏せる・・・そんなことが可能なら、この様な発言は生れない。曽野綾子のエッセイが、聖書の中の一節の引用で語られるのが多い・・・仏教的深い教養を持つ、五木寛之が、経典や、釈迦の人物像を引用しながら自らを語る・・・それは、それを読む、聞く人を信じるからである。

その場にいた記者連の教養も知性も知る由もないが・・・日頃から、彼らが、この官僚から見下されていたと言っても過言ではないだろう。多数の人間を相手に口を開く時、良識ある人なら、まず、その顔つきを観察し、話のレベルを設定する。TVのお笑いタレントの引用で語る総理の寿命が短かかったことに、私は、この国も見捨てたものではないと、我が身の傲慢を恥じながら思ったものだが・・・この官僚には、それなりの必要な教養が不足していたと言うことだろう。

ひいき目に見て、この官僚の更迭後の処遇を見なければならないが、殆ど、場所は変わっても処遇に変化がないとすれば、次は、シェークスピアを英語で引用して語ることの可能な、楽しい「場」を与えられることを願うだけである。

私自身、TVに有名人・・・一先ず教養人・・・と思しき方々の「駄洒落」のレベルの低さに“へきへき”する毎日である。寸言の怖さ・・・その寸言で心臓が抉られる緊張感・・・昭和30年・社会人になったころには、その寸言の意味が分からずに随分と叱られたものだが・・・自らが、そのレベルに至ることなく生涯を終ろうとしてる現状は悲しい。

しかし、「犯される」・・・私は、美しい言葉だと思う・・・顰蹙を買うだろうが・・・残酷な被害・状況を、適切に、被害者の尊厳を守りながら表現する、日本語ならずしては表現出来ないものではないのか・・・この官僚を世間に告発した「沖縄新報」の記者に問いたい・・・同じ表現を貴方なら、どんな言葉で語りますか・・・と。
そして、私自身は、その発言の意味を捉え兼ねているのだが・・・その発言の意味していることへの、貴方の考え・判断は如何なるものであるのかと・・・。まず、その事を報じたのであれば、その報道が在って、この文言への非難が糾弾されるべきではないのかと・・・・。

特に、沖縄の「基地闘争」と言われる報道が、その基地に関わる多面的な実態を詳細に性格に報道されているのか・・・・色々な評論家や学者が断片的に伝える、その歪んでいるらしい実態・・・我々が真摯に判断しようとすれば、その姿を抜きにしては出来ないはずのものである。

例えば、各地の「シャッター商店街」・・・その主は、東京の高級マンションに悠々自適だとか・・・これは、池上章が、そのTVセミナーで語っていた。また、普天間の人家の密集、小学校の立地については、三宅久之氏が、糾弾しているが、一考に、新聞報道として我々には伝わらない。読売新聞にしてからが、口を閉ざしている。その様なマスコミ、メディアに、この官僚の不適切発言を糾弾する資格があるのか・・・まずは、我が身を正してからにして欲しいものである。

我が“まほろば”は、言挙げしない邦・・・・メディアもマスコミも、言葉を伝えるのがその役割ではない。ことの本質に迫ってこそ、その真価が評価される・・・その本質に迫ることばが、その威力を失うことなく力を蓄え発揮する・・・その為の「言葉」とはなにか・・・・君なら、この官僚の発言を、如何様に表現するのか・・・自らに問うて欲しいものである。