私の「屋台」論・・・・

福岡市の市長・・・鳴り物入りで誕生した若い市長だが、今、「屋台」の存続を巡って窮地に陥りかけている。その検討会の座長が「鳥越俊太郎」だが、多少立ち往生気味・・・マスコミやメディアの報じる「世論」に、安易に乗った軽率さが、現在の苦境を呼び込んだ様子・・・このままだと、「屋台継続」ではなくて、「屋台廃止論」を勇気づけかねない空気である。

芸能人・タレント、またメディアの有名人が、博多へ来ると、必ず「屋台」を持ちあげる・・・さも、屋台がなければ博多ではないかの如くに・・・・実は、博多、北九州の、福岡県のメイン都市の看板の様で、実は、経済的浮上が、雄県といわれながら、その「実」が伴わない実態を象徴しているのであると、私は考えている。つまり、文化財的にひっそりと存在するのであれば、とりたてて騒ぐこともないだろうが、屋台が消えると、「博多が消える」が如くに騒ぐ実態が貧しすぎるのである。

一先ず私の立場は・・・・私は「屋台」が嫌い・・・何故なら、「一見の客」を嫌うからである。が、一見の客同志が、身分・階層を意識せずに隣り合って楽しい時間を過す・・・このコンセプトからすれば、そのマナーが正しくないとは言えないし、私も同感ではある。しかし、常連の客との親しさが、一見の客の無視になれば、話は別であるが・・・一見の客の必要性が薄ければ、自然に、そのmoodに流れる・・・屋台が客の争奪で、時に暴力的組織で、その経営の基盤を守ろうとすることが、一時、屋台からの客足を失い、「暴力行為」の取り締まりの強化の中で、息を多少吹き返した・・・それに、タレント、芸人の、自らの人気取りの行為が貢献した・・・そして現在があるのである・・・・私の思う所である。

その過程で、営業免許が、一代限り・・・つまり、世襲を許さない・・・の厳しいものになり、経営者の高齢化も手伝って「廃業」が増え、衰退が加速された。しかし、消滅は寂しい・・・「屋台=博多の風物」なる公式が生れ、今、衰退からの復活が叫ばれ、地域の政治問題化されているのである。

TVのタレント総動員の番組等で、その存在の正当性が、かつての有名俳優等に依って、声高に叫ばれるが、それを苦々しく眺めているのが、屋台の近くの人々であるとことを報道するメディアは少ない。
一つは・・・客のマナーである。トイレを自治体が準備していると言っても、その整備や清掃までは面倒を見ない。屋台の経営者が、どれほどの気を使っているのか・・・・屋台の準備をしている時刻に、近くを通りかかっても、トイレの掃除をしている姿を見たことはない。屋台を閉めた後に・・・・考え難いことである。
二つは・・・トイレが汚いから、客は、概ね・・・男性は・・・「立ちション」になる。川の傍にあれば、川面に、あるいは土手に・・・排水溝があれば、排水溝の蓋の、「穴」が、トイレ代わりになる・・・旨く命中しないから、付近は「尿」で汚れるのは必至である。勿論、屋台の経営者が、その営業の終わった時に、水で洗う等のことはしない・・・・夏場の、日中の上昇した気温で、悪習ぷんぷんだが、当の経営者の関心にはならない。
三つは・・・客のマナーの悪さ。勿論、立派なマナーに終始する客もいる。しかし、何処の世界でも、少数の心得違いが、環境・雰囲気を壊すのである。そして、そのコントロールは、経営者の責務でなければならないが、「屋台」と言う雰囲気が、屋台経営者のディシプリンを育てない・・・・勢い、地域の方々・・・商売であろうと、市民であろうと・・・迷惑を被ることになる。しかも、その様な迷惑行為を含めて「屋台」の性格なのだから、目くじらを立てることが「野暮」と見られ、市民道徳の涵養にはならない・・・迷惑を受ける人々の寛容が、辛うじて、屋台の存続をゆるしている。それが実情なのだが・・・こんなことは「世論」にならない。市長も鳥越俊太郎も、そこの所を視野から外して、安・タレントの声の大きさに、惑わされた・・・と、私は判断する。

焼跡の「屋台」には、それなりの価値があった。そして、環境の悪化も、また、「安い」の条件になる「いい加減さ」も許されたのである。しかし、社会が整然としてきて、その余慶を人々が大事にしている現在・・・その感覚は、寧ろ「弊害」でしかない。

市民が、市民として楽しむ環境には、厳しい制約が必要・・・これは、城壁に囲まれて生活する西欧の「市民」には常識でも、この国では、周辺の海が城壁であってみれば、その意識は薄い。逆に、「破天荒」なマナーが、親しみとして喜ばれる傾向がある・・・市長の感覚の中にも、屋台の持つ粗暴な雰囲気が、楽しいものとして映っていたのだろう。新聞の記事からは、途方に暮れている様子が伺える・・・。

「世論」のいい加減さ・・・民主党政権誕生にも、今回の大阪・秋の陣にも、同様な如何わしさを私は思う。福岡県は、拳銃事件、飲酒運転が、全国一位である。私は、「屋台的」思考の伝統が、その根底にDNAとして存在しているのだと思う。むしろ、拳銃事件、飲酒運転の「特区」とすれば・・・と、乱暴な想像すらする・・・。

地域が、地域の品性を大事にする・大事に育てる・・・市民マナーを守る。山笠行事に見られる、市民マナー、それが、屋台の中に生かせないのか・・・この地域にくれば、このマナーは守らせる・・・その強い決意がなければ、屋台の存続は危うい・・・また、前記の「特区」の実現も防ぎ得ないのかも知れない。時に、他所者を排除する論理も必要なのではないか・・・発展とは、内なる発展・向上があって、始めて実現するものなのであろうから・・・。