人は、何に学ぶか・・・・


過不足無きことの隘路

人間も、何事も順調な家に生れ、何のトラブルも病気のないままに成長し、何の心配もなく仕事を得て、その仕事が永遠に順調であり、家庭も、職場にも、また娑婆にも、何のトラブルもなく・・・誠に安穏な老後をおくり、枯れ木が朽ちるが如くに黄泉に旅立つ・・・こんな人生を送った人は幸せの極みではあるだろうが、「読にも薬にもならない人生」ではあるだろう。
時に、泥棒は、被害者に「油断」を教え、傷害、殺人は、社会に、その構成員の精神の歪みを教える・・・と、何かで読んだことがある。当時は、「犯罪擁護・論」かと、思ったものだが、おれおれ詐欺や、ネズミ講、または、行きずり犯罪・殺傷・・・のニュースを聞く度に、人は学ばないものなのだな・・・との、最近の感慨である。幼児虐待も、分別すれば、生活の困窮もあるだろうが、困窮するべく結婚して、そのつけを幼児に回して、腹いせに虐待する・・・離婚した幼稚な、子連れの母親が、性懲りもなく、同じタイプの男を引っ張り込み、あついは、押しかけを許し、我が子を虐待の末に殺される・・・私には「共犯」としか見えないのだが・・・個人を責める論調は見当たらない。社会全体が甘やかしているのである。私は、何を書こうとしているのだろう・・・・

そうだ・・・事故もなく40年間も酷使してきた原発の安全性について考えるのだった・・・。修身・道徳を教育の中で強調しても、その教育を支えている社会の中に、何故犯罪が絶えないのか・・・増加の傾向にあるのか・・・私は、形は違っても同根である様に見える。

旅客機のシミュレーター・・・この進歩で、旅客機の事故が少なくなったことは、その事故件数からも明らかなのだろう。特に、私は、宇宙船の船外作業に、まだ事故が発生しないことに驚いている。地上における、精密・慎重なシミュレーションの成果だと考えて、考え過ぎではないだろう。勿論、地上で、宇宙の条件を満たした実験・経験が出来るはずもない。しかし、巨大なプールでの船外作業のシミュレーションの成果は、人智の極みといっても過言ではあるまい。

それに比べて、今回の福島原発事故に於ける、事後の対応なから、運転においても、想像可能な事故の対応についても、旅客機、宇宙船の如き、シミュレーションの存在を聞かない。つまり、シミュレーターが存在しないと言うことは、その運転、あるいは、事故についての詳細な分析も考察も行われていないことを物語るものであろう。

勿論、最初から、完全なシミュレーターが存在することは不可能だろう。しかし、日々の運転、あるいは点検の成果を、そのシミュレーターで、確認しながら、事故や、今回の様な地震津波の被害の際の、起りうべく非常時の対応が可能であったなら、もっと的確な対応も可能であったろうし、避難誘導も、速やかに行われ、近隣・農業への影響も、現在の様な、「出たとこ勝負」的なものにはならなかったのではないか・・・私は思う。「やって見なければ分からない・・・」・・・やったこと、起ったことは、全て研究の対象でなければならないだろう。そして、その体制があれば、事故もまた貴重な体験・経験なのである。

「安全・安心」の神話が、今回事故の原因の様に喧伝されるが、私には、常に「今」でしかなかった「今」の連続に甘んじた研究者、東京電力技術陣の、非人道的怠慢にあるのだと思う。設備に、システムの完全はない。だからこそ、事故が、不具合が、明日の安全の為の教科書なのである。40年間の無事故・・・ある意味立派だとは思う。今回事故が、地震津波の天災であったことも認めよう・・・しかし、人間として、技術屋として、操業の責任者として、やるべき事をやっていない怠慢は責められて良い・・・・恥とすべきであろう。

TVの報道では、部品の点検には多くの人材と時間が費やされたのだと言う。勿論、大事なことである。しかし、部品の安全は、部品に由来する局地的なものである。部品の安全がシステムの安全にはならないことは、人間も含めて、幾多の事故に学ぶことができる。事故という「悪魔」は、隣り合う部品の間に存在して、出番を待っているのである。むしろ、システムの状況から、部品の局所的不安定が摘出されることの方が、優先されなければならない。シミュレーションとは、人間の才と知恵を、人間の経験・体験の中で探る、人間の叡智が生みだした、敬虔な、謙虚な装置なのである。

私は、「原発」が、ここで、後ずさりしてはならないと思う。数百年先には、化石燃料は枯渇する・・・その直前に、悲惨なエネルギー争奪戦争を惹起しない為にも、放射線医療の進歩もさることながら、原発の安全についての技術的進歩が、人類史上に必至になる。世界中が、原発を安全に操業できる時代・・・その時に、地球に本当の春が訪れるのだと、私は信じる一人である。