オフレコの犯罪性を考える・・・・


ニュースの公共性とは「何?」だろう・・・。
防衛官僚の発言・・・一川防衛大臣の国会答弁・・・・確かに、防衛大臣の答弁には、「それはないだろう・・・」との思いは私にもある。しかし、質問する側は、かつての制服組であり、かつては「日本軍人」、今「米国軍人」への感情もあるだろうから、どんな答弁をしても、防衛大臣が、現場写真でも入手して・・・「私の知っていること・・・」と、知識を披露しない限り、質問者の、かつての制服組・議員を満足させることは不可能だろうし、質問者が「満足」して引き下がることもないだろう・・・質疑のルールが奈辺にあるのかを明確にしない限り、問題の決着はないと、考えるべきではないか。問題が、感情論に成った時、被害者感情だけが走って、加害者側へのインパクト・・・大臣更迭がインパクトであるとは、私は思わないから・・・にはならないのではないか・・・。

防衛官僚の発言は、一先ず・オフレコだった事実がある。TVの色々な番組で、「昨今、オフレコは存在しない・・云々」の発言が相次いでいるが、私は、オフレコか否か・・・それは、取材する側の矜持を求めたいと、思う、「オフレコ」との触れ込みに、甘い蜜に群がる「蜂」の如くに、集まり、遠慮会釈のない質問を浴びせ・・・その中で、新聞の売り上げに貢献しそうな発言、TVの視聴率を上げる様な発言に飛びつき「料理」する。そして、「重大な発言だとおもったから・・・」は、余りに倫理に反する。また、メディアも、「オフレコ発言」を一切認めない旨の「宣言」をするべきではないか・・・。
決して、官僚の発言を「是」とするものではないが、メディア、マスコミのマナーに疑問を感じている、視聴者、読者も多い筈である。「官僚が馬鹿なんだよな・・・」と、終わらせて、問題の深刻さを論じない空気を作りだしてしまう。一時的な売れ行きで満足するなら・・・それもいいだろうが、それでは、取材記者自身が、不適切発言をした官僚に、何ら変わるものではないことになる。「沖縄新報」が、scandal報道のタブロイド程度のものなら、それはそれで、読者も満足すべきなのだろうが・・・私は、立派な報道紙であり、沖縄県民の信頼も得ていると、聞いているから、その意味では、今回の報道の瑕疵であたかな・・・・また、右翼的―芸能人的―過激な発言を常とする評論家を元気づけるだけで、防衛相更迭で、一件落着に終わるのではないか・・・被害者少女の霊も浮かばれない・・・残念な事である。

また、一川防衛大臣の「お詫び」行脚に対する、沖縄県知事のマナーについても、余りにもポピュリズム色が強く、私は、私自身が批判的にならざるを得ないことを残念に思う。なにはともあれ、一国の大臣である・・・県知事や県民が認め難くとも、それが制度、システムと言うべきものであり、それを無視するのは、「無政府主義者」に一歩も二歩も近づくことになる・・・危険な事である。
県知事が県民の「拍手」を期待して行動することは、別の勢力が、県民の一部の「拍手」を求めた行動を許すことになる。本土・人が、観光地としての沖縄に関心を寄せても、基地被害者としての沖縄への関心を深めない・・・沖縄の実情・・・主に、精神的な負担・・・に対する無関心によるものであるとは、私自身が認めざるを得ないが、その「無関心」の深まりが、何に起因するのか・・・片方に、基地被害者としての沖縄県民への同情があり、片方に、種々の経済援助がある。また、先に紹介した、過激・右翼的評論家に依る扇動的な、「沖縄我儘・論」を積極的に、討論形式のバラエティーを装って本土国民、なかんずく阪神地方の視聴者にアピールする番組もある。

例えば、全国の街に存在する「シャッター通り」・・・先の池上章の解説番組で、実は、シャッターを下ろした店(かつては)の店主は、東京の高級マンションに、その余生を過ごしていて、街の窮状には無関心である・・・との説明。これで、シャッター通りの商店街を見る、わたしの目にも、違ったものが見えて来る。もし此処に、地方税の一部でも使われているのだったら、あるいは、その解消だけをうたって議員を続けている御仁がいたら、それは、全くの税金の無駄使いでしかない・・・・朽ち果てるまで、復興の必要はないことになる。
この池上章の発言が適切であるのか、否か・・・同じ様な問題が、官僚発言への怒りの行動、防衛大臣発言への抗議活動・・・・のニュースの陰に、本土の視聴者が感じているのだとしたら・・・やはり、説得力の力不足を思わざるを得ない。

私の、このブログでも、かつて「伊江島・・・だったと思うが・・・」に触れて、大江健三郎の一節を紹介した時に、激しい反論。反発を受けた・・・文学者の政治活動への反発を感じている方なのかな・・・と、当時は、私も思ったものだったが、特に反論はしなかった・・・と、思う。NHKの二夜連続の、「証言記録」・・・何度かダブって登場する方の姿もあるが、80歳、90歳、そして時には100歳になって、やっと口を開く・・・この方々が、もう少し早く口を開いていたら・・・・と、思わないでもないが、終戦から引揚(北朝鮮から・・・)に至る、経緯の中で、父が、その時の身の処し方を語ったのは、98歳で亡くなる数ヶ月前だった・・・「北朝鮮・訪問」の誘いがあった時、参加しないことを決めているらしい父の姿に、「俺が・・・」と、私が参加しようとする私を押しとどめた父は、その時に何も語らなかった。

人間とは、身の周りに「恨み」の渦が在る時、殆ど語れないものである。いわんや、戦争を知らない世代に、戦争に起因する現在について理解を求め、可能な限り歪を少なく、現状を改善する努力を論じることは難しい。その意味では「オフレコ」も、不満のガス抜きに利用できなくもないが・・・それは相互の心情が完全に一致したときのみ可能なのであろう・・・その意味では、「オフレコ」の存在は、少なくとも、政治絡みの発言。取材には、完全に撤廃されるべきであろうし・・・如何なる取材も、あるいは討論も・・・真剣に、真剣なことばで、真剣に命を掛けて、行われるべきであろう。

全てを晒して議論する、討論する・・・それは絶対に不可能である。しかし、議論、討論を重ねることで見えて来るものは多いだろう・・・見えて来るものが多くなれば、多様な理解が生れ、多様な理性が誕生する。幸いに、人は、常に新しい「世代」を誕生させる・・・その新しい世代が、前・世代の遺したものの中に、新しい「事実」を見つけ、新しい解釈をし、新しい知見を生み、そして、日々新しい議論のなかで、初代とは違っているかもしれないが、次の世代に相応しい「結果」を残す・・・それがまた、次の世代の課題となる・・・決して、センセーショナルに激昂することでもないし、シュプレヒコールで問題が解決に向かうものでもない。

来年早々には「総選挙」が行われる公算は大ある。自民か、民主か、公明か・・・・何を以って、その選択の因子とするか・・・・
「運命」・「偶然」・「選択」・・・・「君は、何を以って選択したのか・・・これが重要だと、コロンビア大学ビジネススクールの、盲目の教授は、その講義に語る・・・・NHK・「白熱教室」。“選択”出来ずして、他人の選択を不満に騒いではならぬ・・・問題の防衛相の誕生も、我々国民の「選択」の結果だと、せめて忸怩たるものを感じる感性は欲しいものだと思う。