アスリート犯罪・考・・・・社会からの永久追放・・・・を!


アスリートの努力は認めよう。天性も認めよう。また、それに「賞」を与えて、彼等を称賛し、成績不振をなじる我々一般人の我儘を責めもしよう。

しかし、社会は、「生産者・・・消費者と言う生産者も含めて」の活動や、欲望、願望で存在もし、その安全・安寧が保たれている。また、その努力もなされている。スポーツの価値も、日常では見え難い、個々の市民(個人)の姿に感激し、あるいはそ、共鳴もし、憧れもする心情を涵養する所にあるのだと、私は思う。

一般に、市民に秀でて功績を残し、あるいは、活動する人々に市民は憧れ、己の日々を鼓舞し、あるいは、生活の「張り・楽しみ」とする。サッカー、プロ野球・・・等々、地域のチームの優勝であっても、その個人への影響は、高々、デパートの祝賀セール程度でしかない。寧ろ日常では、その報酬の額に羨望の感情を抱き、眼を向けるのが、精々だろう・・・。

しかし、国家事業としてのスポーツ・・・国際的に必要性はあっても、国内で、一つのビジネスとして成立しないスポーツは、市民・国民の支持なくしては存在しない。労働で得られる報酬に満足できない大衆・庶民も、生活とは、直接には無縁の「優勝」と言う文字に、市民・国民は、特別の感情を抱くものなのである。世界は一つ・・・と、言い条、それは「ないよ!」と言うカントの根拠もここにある。人は、切磋琢磨しながら、紙一重で、闘争を回避しながら、世界を運営しているのである。

故に、「国体」、「オリムピック」という競技会から、地域の小さな競技会、あるいは、競技別の世界大会が存在するのであり、夫々に、人々を満足させ、癒しているのである。栄誉も、競技の成績に与えられるものではなく、その「癒し」に与えられていると考えるべきであろう。

そして、其処に、「税金」と言う、市民・国民にとっては「血税」でもある税金が投じられる。スポーツ、それ自身は、個人の趣味に、限りなく近い・・・・衣食住には必要ないものである。何故故に、「血税」は使われるのか・・・また、市民・国民は、それを黙って受け入れるのか・・・それは、己への「癒し」の効果を認識しているからである。

そのアスリートが、犯罪を犯す。況や、教師、指導者としての地位・立場を利用して・・・とは。開いた口がふさがらない。しかも、被害者は、未成年に近い女性・・・国家として、如何に「金」が欲しくても、この様なアスリートを育ててはならない・・・と、私は思う。

この種の犯罪は、突然に、忽然として起るものではない。今回で言えば、大学の「卑しさ」に、多分に起因するものであろうと、私は思う。大学も、柔道部を一度は解散して、指導者招聘の原則を厳格に見直して、再出発をするべきだろう。また、該アスリートは、アスリート界から永久追放されるべきであろう・・・彼が、例え「飢える」とも・・・・。