「君はお客さん・・・」と、転校生に言う教師の愚かさ・・・とは!

下書

君はお客さん・・・・
被災地から、子供達が転校する・・・引揚者である私の感覚からは、「何でもない・・・」こととしての感覚しかないない。見知らぬクラスメイトの中で、暫くは自分の位置が定まらない不安はある。また、前の学校の「先生」とは違った「先生」との、心理的葛藤もあるだろう・・・前の学校が楽しかった子には、それだけ、心理的負担は重くなる。しかも今回は、一瞬の環境の変化への対応が整わないと言う条件もあるだろうから、自分の立つ位置の確認も、その変化への納得も出来ていない。新しい環境で新しい友情が生れる・・・それはとりもなおさず、かつての友情が育てた、一つの個性であり、新しい友情を得て、始めて、かつての友情に報いることになるのではないか。
私は、炭坑町の小学校に転校したが、学校の雰囲気は「粗野」であっても、学期が変わる毎に、クラスの三分の一の子供が入れ換わる。学年が変わると、クラスの中は、自身が転校でもしたのかと、疑いたくなるほど、親しかったクラスメイトの顔が消え・・・別れの挨拶を交わすこともなく・・・新しいクラスメイトが現れる。明治44年生れの父(父とは同窓)のころも、同じ様な状況だったと、語っていた。勿論、三井三池の様な、大企業・炭坑では違ったのだろうが、「中間」という、中規模、あるいは、周辺の小規模炭坑では、同じ様なものだったらしい・・・父の話。
炭鉱夫(坑内)は、渡り鳥である。江戸時代の長屋の住民に似ていて、家財というものを持たない。少しでも稼ぎが良い炭坑に、一寸寄り道でもする様に、移住する・・・炭住(納屋)は、光熱費も含んで、殆ど「只」同様、日常に必要なものは、炭坑の経営する売店で、「つけ」で入手できる・・・そんな環境だから、移住・転向への、精神的負担は殆どない・・・現に、4年生で転入した私の親友・・・人付き合いの下手な私・・・は、学年ごとに異なる。そして、学年が変わる度に、その姿が消えていた。そして、中学校では、同じ小学校で学んだ子供が、随分と少なくなったいた。特に、女子は、三分の一もいなかった。新制中学三期生だから、義務教育の縛りも緩やかで、女の子は、小学校を終えると、色々な奉公先で働いていたのだと・・・今は、推察する。

しかし先生にも、それに対応する「知恵」が備わっていたのだと・・・今に思い、感謝もする・・・私の場合は・・・同じ方角から通学する学友をコーチャーに付けてくれた。勉学の助成ではない。寧ろ、放課後の私に、手を差し伸べてくれる・・・道草の好きな子で、毎日、下校後の帰宅までのコースが違った・・・家では、母や、時には妹、弟が待っているのだから、時には、帰りの遅さを激しく叱責されることもあったが、それまでの時間の楽しさが補って余りがあった。5年生、6年生では、その必要性はなく・・・新しい転校生の相談相手にもなっていた。私にも、人付き合いの技術が育っていた。

「君たちは、お客さん・・・」と呼んだ、被災地の子供の転校した教室の教師の、真反対にある「先生・教師」のマナーであろう。

そもそも、生れた土地、育って土地でしか生きられない子供・人間を育てて・・・教育の役割が果たせるのか・・・教師の「教育観」の貧しさとでも言うべきか!
慇懃無礼」・・・丁寧に応対しながら、心の伴わない「礼」を言う。「苛められない様に・・・」、そんな気持ちもあったのだろうと・・・「悪気はなかったのだろう・・・が」と、NKHの9時・ニュースのアンカーは言う。しかし、転校した学校で、自分が、腕力で、成績で、知恵で、優しさで、時に、話力で・・・どの位置にあるのだろうか。案外と、その判断は早い。特に、男の子には、腕力の順位は大事である・・・中には、「小判鮫」の様な、卑しい奴もいることは大事なことである・・・それを見分ける知恵もなければならない・・・「お客さん・・・」として扱われることは、「檻の中で生かされる動物」の様なもので・・・最も残酷な処置である。
また、一部のクラスメイトと教師・先生の関係の中に、「社会構造」を知ることも、一歩「大人」に近づくことである。アイツよりも、俺の方が成績が良い筈だ・・・100点の回数も多い。しかし、終了式で、「一等賞」を貰ったのはアイツで、俺は「二等賞」だった・・・賞状を眺めながら母が言う・・・あの子は、町の偉い人の子供だからね・・・・と。特段に、反抗する必要もない、抗議する必要もない・・・・特段に「正義」に反することでもない・・・それは、父の弁だった。
父の話は・・・・
お前が、この「二等賞」をどのように大切にするか、あいつが、あいつの「一等賞」を、どの様に大事にするか・・・それだけの事だ・・・・勿論、賞状などと無縁だった友達は、それぞれに、貰わなかったことを大切にすればいいのだ・・・と。
「お客さん・・・」と言われて子供にとって・・・あるいは辛い日々になるのかもしれない。しかし、その辛さは、君の大切な経験・体験なのだと・・・・考えて欲しいと、私は願う。つまり、君を「お客さん」にすることで、彼・教師は、自ら“教室”を「檻化」していることになる。君は、「檻」の中に学ぶクラスメイトの惨めさを、しっかりと「目の底」に焼き付けて、その地を去る日を楽しみにすれば良いのだ・・・と、私は思う。
そして、その高いハードルを越えて、育つべき友情をッ育てながら成長して欲しい・・・・と。