忠臣蔵談義・・・・・


雲を掴む様な話だが・・・私は、「忠臣蔵」が滅びない限り、「飲酒運転」も、「暴追」も、旨く行かないと思っている。つまり、根拠を議論するテーブルが存在したことがない、議論する経験もなく、過去もなく・・・ただ、一つの“思いこみ”を、民族のアイデンティティーとして、盲信して、ある種の“生活信条”として、“判断停止”に陥っていると、思うからである。

NHK・BSの「歴史館」で、面白い討論が行われていた。九州の侍と、江戸の侍の「忠義」感覚の違い、また、打ち入り当日の、江戸市民の反応・・・あるいは、47士の家族のその後等々。

そもそも・・・「忠義とは?」に、明確な定義を導き出すことはかなわなかったが、この討論を視聴しながら、我々、今日の日本人が、気持ちの中に、本来あった「武士」への市民(江戸)感覚と違ったものを想像して、あるいは、熱中しているのかな・・・そして、「飲酒運転」が後を絶たない理由の背後に、この「忠義」の感性が存在し、「暴力団;ヤクザ」の響きの中に、忠義という言葉が、美しい響きを有しているのではないかと、思うからである。

もう一面で忘れてはならないこと・・・それは、幕末に〜旗本株が安くなった・・・に、百姓、町人の、“武士志願”が強かったと言う事実である。恐らく、その外面的な“様式美”への憧れだと、思うが、彼等の憧れが、そのディシプリンにあったことは疑い得ないだろう。その一つが「忠義」という、美しい哲学だったのだと、私は思う。片方で、武士としてのディシプリンに忠実に生きている武士の“マナー”がどれほどまでに、自己犠牲を伴っているかについては、今日でも、余り語られることはない。
それを理解した町人、百所は、子供達を熱心に教育し、武士の養子としての、家系の武士化を図ったのだと言われるし、現に、幕閣に連なる、いわゆる平民出身の武士も存在しことは、歴史小説等に登場する。女の子なら、大奥への道も開けていたのである。
何度か論じた記憶があるが・・・江戸時代、上昇指向の百姓・町人の子供は男女を問わず、3歳にもなれば、遊ばせて貰えなかった。父親に教養があれば、勉学・・・漢文素読、武芸、あるいは嗜み一般・・・茶道、華道、あるいは、和歌等の教養の修練に、一日を明け暮れていたのだと言う。江戸の街に、子供の遊び場の存在しない所以であり、子供を遊ばせることが始まったのも、明治になってからだと言う・・・長屋の子供(餓鬼ども)は、親の一部の仕事を担っていたのだと・・・。5歳にもなれば、一端の大人だったのである。昨今の子供に、爪の垢でも煎じて飲ませたい!

街に、多くの学者が、その「派」を競い、長屋の子供には、浪人武士が師として存在し、全国の藩に、学問所が存在した。特に、浪人武士の生活の手段として、寺子屋まがいのものも多数存在したのだ・・・。忠臣蔵の主テーマである、「忠義」についても、全国津々浦々に、夫々の理解があり、議論があったことが、当夜の討論の中にも聞かれた。町人、百姓も、「忠義」についての一端の知識は旺盛だったことが推察できる。
故に、打ち入りの騒動は、明け方まで続いたのだから、吉良邸の周りは、江戸町民が黒山だったことは、想像に難くない。今日的にいえば、暴力団頭目の広大な屋敷を機動隊が包囲して、ドンパチやっている構図であろう。大衆は、我が身の危険を返り見る事なく、群衆となって見物することだろうと、思う。打ち入りの時も、群衆を整理する役目をする武士が配置されていたと言うから、人間の真理とは、数百年では殆ど変わらないのだろう。

其処で「忠義」・・・・大王製紙オリンパス・・・・その不祥事は、「忠義」から生じたものではないのか・・・忠臣蔵は、TVに喧伝されても、少なくとも、これらの企業の、誰が、誰への忠義を尽くした為に、報道される程の巨額な損失が生じたのか・・・この季節だからこそ、これを論じる“評論家、学者”が居てもいいのではないか・・・私には不思議である。
つまり、「不忠・者」への忠義・・・・図式的には、そう見える。あるいは、先の戦争で、殆ど無駄な死を強いられた「兵士」達・・・彼らが、国家への忠義・・・建前は天皇だが・・・に名を借りて、己が立場を守る手段・道具にしただけ・・・と。「忠義」と呼ばないと、彼等の「霊」は浮かばれない。しかし、戦後も、のうのうと生きながら、その指揮官、軍部高官、あるいは、それを利用した有力政治家達・・・国会に復帰した、岸伸介、鳩山一郎等々・・・が、その霊への敬虔な謝罪をしたかと、言えば、勝者の裁判は受けたが、その死者、遺族の審判は受けないままに、戦後も60余年を過ぎている。
先の戦争・敗戦・・・その中で、散らされた幾多の「命」を思えば、“忠義”なる言葉の残酷さを思ってしまう。

浅野内匠頭の行動は、今日的には、国会のなかで、日本刀を振りまわした、あるいは、機関銃を乱射した行動に近い・・・明らかに“違法”である・・・吟味なしで、「切腹」との判断も、その意味では、綱吉及び幕閣の落ち度だろう。
そして、幕府に、「仇討」の許可を求めず、無許可の仇討を行ったのも“違法”である。吉良の賄賂や、苛めは、咎められるものであっても、それは、別の問題であり、別途裁かれるものであろう。つまり、江戸幕府は、少なくとも、“法治”の統治体制である。
昨今で言えば、ヤクザ組織の頭目への攻撃・被害を、法的裁きに委ねることなく、復讐と言う手段を実行することである。
統治体制としての徳川政府、そして、現実の民主主義体制・・・両者共に、犯罪の事案は、そのカテゴリー毎に、その刑事訴訟法にの取って裁かれるべきものであり、「私怨」としてはならないことは、共通している。

我々が、“忠臣蔵”を是とするならば、ヤクザ(暴力団)の、怨恨に発する、私的攻撃(復讐)も、「是」とせねばなるまい。師走の街に、「暴追」の幟を担いで行進し、夜は、TVの忠臣蔵に涙するのでは、昼間の「暴追」活動は“茶番”でしかないだろう・・・。

「飲酒運転」も然り、断るべき運転を断り切れずに、酒気を帯びて運転する。また、上司や、付き合い先の要請を断り切れずに、「少しだけ・・・」と、お付き合いする・・・酒を飲む準備のないままにつきあった「酒」である。お付き合いの終わった油断から、ついついハンドルを握る・・・「忠義」の、(誤った)義理が、飲ませた酒であり、お付き合いである・・・ビジネスライクに、判断を行えば、あり得なかった「犯罪」・・・義理と人情・・・止むに止まれず参加した“義士”の心情でもあるだろう。

せっかく持っている「脳」である。「忠臣蔵」とは、別の回路を、己の中で育てる工夫・努力・・・「忠臣蔵」に、己の情念を書き回されている様では、既に、現代人とは言い難い・・・と、私は考えるのだが・・・・