NET販売の商品化した「男女」の犯罪としての、長崎・2女性殺害事件・・・・

長崎の「2・女性」殺人事件・・・わざわざ千葉県から駆け付けて殺害・・・そこまで情念に駆られた・・・その原因が何であったのか・・・己の理不尽を咎められた事への恨みなのだろう・・としか、ニュースから思えない。これこそが、理不尽な怨恨であろう・・・

私はあえて言いたい・・・NETで知り合える人間とは、所詮、この程度のものである。この言い方には、このブログに応対していただいている方々には、遺憾な言葉として聞こえるかもしれないが、それは、「言葉」への理解の不足だと、あえて申し上げたい・・・そんな方は居ないと思うのだが・・・・念の為に。

つまり、私は、コメントの言葉は真摯に読ませて頂くし、その内容も、真面目に考える努力をしている。勿論、お返しするコメントが十分であるとは思っていないが、現時点では、精一杯の努力であり、私の全てである。勿論、冒涜に類する書き込みは、消去させていただいている。そして、その様なコメントに時間を費やす「卑しさ」に同情するだけである・・・この事件の、犯罪者と、重なるものであると・・・

50年来のお付き合いの友人がいる。一緒に酒を飲んだり・・・若い頃には何度かあったが・・・あるいは、態々、尋ね会うこともしない・・・・インターネットを使う前は、年に一度程度の手紙で安否を確かめあう程度だったが、今は、月に一度程度、近況をしらせあったりしている。そいて、大事な要件については、必ず「手紙」を使う。また、確実に知らせたい時は、葉書であらかじめ知らせ・・・その後を、ネットにするか手紙にするかは、お互いの判断である。
江戸時代の長屋の人々の「伝言」も基本的には、文書・・・メモを手渡す・・・だったと言われる。お互いに不在の多い住民にとって、意志を確実に伝えるのは、「手紙」が、最良の手段であり、また、識字率の高さの高い世間の常識でもあったのだろう。

手紙・文字・・・は、その形・筆跡・筆力・・・等などが色々な情報を伝えてくれる・・・勿論、読みとれる能力が必要だが・・・・。NETの様な、無味乾燥なものではない。NETは「無人格」なものだが、手紙は、そのまま人格でもある・・・情報とは、人格を含んで「情報」となるのである。

NETで「友情」を養う、お互いを理解し合うなどと言うのは、「欺瞞」でしかない。文明の過信ですらない、文明を理解し得ない「愚かさ」だと、私は考える。

NETで知り合った「男」と同棲し、暴力の日々を送り、果てに、母親を祖母を殺された・・・私は、その軽率な行動・判断・選択をして、惹起した犠牲であり、非劇であると判断する。そして、この非劇の予感は、NETが、その仲介をした時に生れていたのだろう。

ニュースでは、極悪非道な犯罪・・・とだけコメントされるが、実は、NETに潜む、危険な陥穽への警告があってしかるべきだろう。男も女も、NET販売の「商品」ではないのであると言う自覚の不足への警告である。お互いに、商品化した個人になっているのであるから、返品も破棄も自由なのだが・・・但し、返品には「クーリングオフ」が存在するが・・・・その時に、人間の感情・・・人間らしいとは言いたくないが・・・が芽生える。その「感情」は、犯罪の「種」でしかないのだが、当事者に、その自覚は乏しい。時に、傍杖の非劇が生じる・・・それが、今回の非劇である。これを、「日本はどうなっている・・・!」と、TVに叫ぶ“みのもんた”は、異常でもある。
恐らく、曽野綾子氏の言う「教育の問題」と考えるのが、妥当な判断だと、私は考える。つまり、日々、大人になって行く・・・最近は加速が著しい・・・子供に、大人として必要になる「資質」を教えようとしない「教育」のことなのである。

パソコン、ケイタイ・・・の発展は素晴らしい。特に、身体的ハンディーを持った方々の生活をささえ、その活動の範囲を広げ、多くの人材に「陽」を当てている。人間・文明の素晴らしい作品である。しかし、その素晴らしい文明の余慶を、自らの「資質」の向上とは無縁のものとして手にし、いわんや、犯罪の切欠と為し、手段とする・・・その萌芽を如何に摘むか・・・教育評論家が、お笑いTVにちゃらちゃらしている時ではないだろう。自ら、新聞広告面を買い取り、ときにはTVのチャンネルを買い取り、その必要性を訴え、具体的に対応を論じるべきではないか・・・ありは、メディアも、その様な志に「場」を提供すべきではないのか・・・。

この様な犯罪者に、「日本」を心配する必要なないのである。一刻も早く、迅速に排除できれば、それでよい・・・しかし、少しでも、少なくしていく努力は、「教育」の喫緊の課題でなけらばならないだろう・・・・。