ワイドショー化される、「金正日の死」への危惧・・・・


この国は、全てのニュースをワイドショー化してしまう。そして、感情的に理解し、時に、無用な情念を燃やし、そこに必要となる「選択」を考えようとしない。「原発」問題も、その典型的なものだが、今日は、それを論じることはしない。

金正日の後継者が、金正温であることは、今日までのニュースに自明であっても、今にも他の兄弟に取って変わる可能性を論じたり、顔が祖父の金日成に似ている等の、大凡政治とは無関係な事がらに、各局が熱を上げる。
必要なのは、今から、この国で何が起り、どの影響が、日本を含む周辺国に及ぶのか・・・あるいは、アジア政策に大きな変化が現れるのか・・・特に、中国と金正日との関係の中で、何が起ろうとしていて、「首」の交代で、その変化があるのか、ないのか・・・あるとすれば、どの様なプロセスが考えられるのか、そのプロセスを、韓国はどの様なマナーで対応しようとしているのか、日本は如何に・・・等々、報道すべきことは多い。しかし、お祭りの「見世物」の説明の様なニュース報道、解説に終始している現状は、嘆かわしい。
また、この様な、ワイドショー的ニュース報道を喜ぶ国民であると、我々は、メディアから思われているのだと思うと、この上なく悲しい。ベトナム戦争当時の、週刊誌の様相が、私には思い出される。当時の日本の週刊誌で、ベトナム戦争を知ることは殆ど不可能だった・・・有名。反戦作家の活動も、ベトナム戦争の現状の本質に迫ることはなく、単に「戦争反対」を叫び、米軍に脱走を勧め、ベトナムの捕虜になることを勧めていたに過ぎなく・・・その様な兵士が出れば、我が事の様に喜んでいただけだった。
しかし、私の語学力では、殆ど読めない様な記事でも、その図解等で、日本の週刊誌では理解出来ない部分を、理解として補うに充分だった。つまり、報道の本質が、「面白い」ではなく、「理解」の本質を明らかにするものだった。地上の、粗末な小銃で、アメリカの、当時の高性能ジェット戦闘機が、何故撃墜されるのか・・・それは、武器の問題ではなく、アメリカ兵士の傲慢と、真摯な戦争を戦う、ベトナムゲリラの闘う姿勢であることを理解するに充分だった。
その私の理解は、戦後20年・・・当時の、アメリカ・ベトナム双方の高級軍人、官僚の懇談の席でも、明らかになったものである。
建前的には、「反共」で闘っているようで、アメリカの兵士・・・特に戦闘機搭乗員・・・は、ゲームでも楽しんでいる様な気分で闘っていたことが、対話の中に聞きとれるものだった。どんな戦争でも、どこの国の兵士でも、思想で戦争の現場を闘うものではない・・・もし、現代にその様な兵士が存在するとしたら、恐らく、日本の自衛隊を於いて皆無だろうと、私は思う。

金正日の死は、一人の人間の死としてとらえれば、悲しみの極みであり、彼の統治で行われた事とは、原則的には無関係である。そして、その統治のシステムが、変わるのか、改善されるのか、あるいは、システムそのものが変わるのか、微調整のままに、本質的変更・改革のないままに、現状が継続されるのか・・・それが、そこに、被害者とならざるを得なかった人々の関心でもあるだろう。それを伝え、考えさせ、討論が可能になる様な、ニュース・ソースを提供するのが、メディアの重要な役割のはずである。その意識が、全てのチャンネルに欠如している・・・と、私は感じる。

真面目に考えるとは、熱狂することではない。冷静に、次のステップを考えることなのである・・・個人のレベルで、地域のれべるで、街のレベルで、国家のレベルで・・・・皮膚感覚を麻痺させる様なニュース報道・・・・これは、殺人にも匹敵する犯罪であると・・・今朝のニュースにも感じた次第!