今年の最後っ屁・・・・少々臭いが・・・我慢は出来るだろう・・・我慢すれば、大人になれる・・・・!

自戒を含めながら、「大衆」の愚かさを思った一年だった・・・選挙では、民主党に当時無かったのが、せめてもの、私の矜持ではあった。小泉郵政選挙だったと記憶するが、私は、その半年以上も前から、このブログに「民主党の大勝利」を予言した。国鉄、NTT等の民営化の中で、日常の暮らしが良くなり、国鉄職員の横暴、NTT職員と、電話設置時の、上から目線に怒りの様なものを感じていたからである。我家でも、子供の誕生は、救急車代わりのタクシーを呼ぶために電話が必需品になっていた・・・「電話公債」が、数十万円・・・家の頭金の数分に一にもなるものだったし、その時の受付の横柄な態度・・・全く、今に思えば、住み難い世間ではあった。
また、勤めていた企業から、当時、走り始めた電車で約一時間・・・その電車が、頻繁に「スト」で、運行を中止する・・・何度、数千円のタクシー代を払って、出勤し、顧客との約束を果たしたことか・・・そして、出張先から、書類を含む小包を送ろうとすれば、駅の小荷物係の横柄さ・・・そして、その不正確さ・・・時々、公務に混入させて私物を送り、何度叱責を受けたことか・・・。国鉄もNTTも、そして郵便局も、その横柄さは、まだ戦中を知る大人達には「当然」であっても、そろそろ新しい息吹を感じ始めていた、昭和10年代生れの私には、時代錯誤、窮屈なものであり、鉄鋼の現場で肌に触れていた、その近代化の波には、全くそぐわないものだった・・・。

民営化は、全て、その効果は、自民党の政策の正しさを証明しているのだが、大衆は、国民総背番号制を潰した「土井・社会党」を評価しても、この民営化の功績は、その便利さに浴しながらも評価しない・・・自民党の「善政」は、「当然のことと・・・」として、己の感性に評価する事なく、民主党の甘言に乗って選んだ政権が、昨今の、鳩山・菅政権だったのである。この間、日本は、政権亡きが如き状態にあるのである。

派閥を持たない、自らの属する派閥では異端児の小泉純一郎が、総理を降りた途端に・・・歴代の総理は、彼のマナーを見習うべきであろう・・・主流になるべく領袖を持たない派閥が、「郵政改革」の逆コースを叫び始めた・・・また、働く意欲なく「派遣」に転じて、それを企業家ら都合良く利用された「労働者」・・・勤労者ではない・・・が、小さな不況の波の立つ度に路頭に追い出される「元・派遣」の姿に、「格差」なる言葉で、小泉政権の「巧」に非難中傷を、悪口雑言で浴びせ始めた・・・それに便乗したのが「民主党」である。

小沢一郎が、福田康夫内閣との連立を画策した時、流石に「策士」だと、私は感心したし、大事なことだと、この時は小沢一郎を評価もした・・・当時のブログが証明していると思う(勘違いでなければ)・・・・

体力の弱った自民党が、民主党の甘言に酔った大衆に酔って、政権を失った。強い藩が倒幕に走り、弱い藩が日和見を決め込み、大衆は、政治に無関心だった「徳川」が、政権を失った構図に重なるものである。
西郷隆盛が、討幕の跡の「政治」的見識を持たず、政権を失った徳川側に在った勝海舟が、新政権の陰にあって、陰に陽に、その影響力を残した・・・小沢一郎は、平成の勝海舟になり得るチャンスもあったのだが・・・・そうはさせない民主党の体質は、殆ど「政治」の匂いを失い、政権の腐った臭いに満ちているというべきだろう。

野田政権の、増税に関する不退転の行動は、一先ず評価しておきたい・・・・野党ボケの政権が担当した国政である。おそらく、フランス革命後の恐怖政治も、パリコミューンも、同じ様な所に原因があり、同じ様なプロセスを辿ったのであろうと、私は憶測する・・・そのことを論じた著書にであったら、大金を払ってでも読んでみたいものだと思う。

来年から、年金も減額に向うだろう・・・もし、長期ローンを抱えている方が入たらお気の毒である・・・恐らく、物価下落以前の物価のローンだろうから・・・・しかし、物価が下がるから、年金を下げる、あるいは賃金を下げる・・・愚かな事だと思う。一つの社会に、賢明なる「人財」が消える時とは、こんなものなのだろう。「2・26」に始まった私の障害も、最後に近くなって、着くべき、愚かな岸辺に漂着した感じはある。つまり、愚かな「人材」を育ててしまった結果であるにすぎない。論者は、団塊世代の「孫」達の愚かさだという・・・そうかも知れない。言うところの、「三代目の高楊枝」なのだろう・・・と。

巣籠り老人の私に見える者には限界があるのだが・・・少なくとも、労働組合出身、あるいは推薦の国会議員、地方議会議員は、その数を減らしつつあるらしい。いわゆる、似非民主主義者の「革新」の看板の偽りに多く人が気が付いて来た・・・いや、寧ろ「似非・・・」の冠が似合う様になってきた・・・ロシアでも、反・プーチンは、反・共産党でもあると言う。
幸い我々は、ロシアの様な、「似非・善政」の共産党政治の経験を持たない。太宰治を、文学者として評価しながらも、その同世代の多くの若者が、今日の日本の基礎を気づいた、明治を、命を張って造って来たことを充分に知っているのである。そして、大正時代が、悲劇の「昭和20年」を招いたことも・・・。
「降る雪や 平成も遠く なりにけり・・・・・」。土井たか子も、その影を失くした。結局、社会党は、その政治母体である労働組合の大衆性にささえられながら、その大衆の愚かさ故に、その生命を終わったのである。今、公園の炊き出しに、年を越す不良者・ホームレス・・・社会党の戦力の衰亡のすがたでもある。政党としての社会党の役割は、大衆を庶民として自立させるべき政治勢力でなければならなかった・・・のだと、私は思う。

赤旗」が、その魅力と共に、その力を喪失し始めたころ・・・私は昭和40年代後半だと思っているが・・・・赤旗を掲げた地方議員選挙は、その敗北の姿が多かった。そして、労働組合出身議員は、似非自民党を演じることで、年金が貰えるまでの議員生活を耐えいたのである。地方の衰退は、この様な議員の食い物になれたのであって、自民党時代の政策の誤りではない・・・民主党には、その読み違いもあったはずなのだが・・・・増税で、地方への交付金が増えれば、次は、地方政治の「無駄使い」が問題になるであろう・・・と、私は読む。

常に、政治には、希望はない・・・希望を求めて庶民が呻吟する・・・それでも生きていけるのが「善政」である。酔生夢死を暗示する様な政策に踊る大衆が多ければ、政治は死ぬ。そして、人間は、苦しみながら「死の道」を歩かざるを得ない。愚かな大衆とは、己が苦しみながら、己を変えようとはしない・・・庶民に!・・・俺一人でも、「庶民」でありたい・・・来年への覚悟である。