面白くもない・日本の正月を愚痴る・・・・


事件もなければ、特段のニュースもない・・・今朝のニュースで、北海道で、自民・公明の選挙協力が伝えられた程度・・・元・オームの幹部が自首のニュースは、公安当局の失態に、警察の失体を重ね書きしたようなもの・・・ニュースとも言えないものであろう。

恐らく今年は、アメリカの年・・・日本のマスコミ・メディアでも、大統領選挙一色に成り、ニュースに関心のある私などは、自分がアメリカ人であるかの如き錯覚に陥るのかもしれない・・・意識をしっかり以って日々を送らねば・・・の覚悟を新たにする。

坂の上の雲」・・・・司馬遼太郎が映画化を禁じた作品である。日本人が、また舞いあがったら困る・・・との気持ちがあったからであろうと忖度するが、現在の日本社会に、そんなエネルギーはない。黄泉の国で、遼太郎も苦笑していることであろう。

しかし、そのドラマの詳細を教えてくれる冊子に知るのは、登場人物の人間の大きさである。勿論、二人の主人公・・・秋山好古、真之兄弟・・・もそうだが、その生育の中で授けられる教育、そして、良き友を得る環境・・・勿論誰にでも恵まれるものではないのだが、この環境が人間を育てる原資であることの重要性は見える。
つまり、「学校教育」の凋落・・・子供の育成・生育に必要なものの「取りちがえ」をしてきたのが、この時代以降の日本の教育ではなかったのか・・・との疑問である。
その伝承が、僅かに、特攻隊で命を落とした若い者達の、感動的な手紙に、その断片があると考えるが、しかし、これとても、形而上学的には、立派なものであっても、それは、もっと深いところにある、人間洞察に基づいた、あるべき思考・考察・そして行動を封じるものとしての行きつく先であったのではないか・・・旗艦・三笠の、将兵、水兵・・・彼等の心情と、日本海海戦には闘うこともなかった世代の、形だけの心情が育てた形而上学的義務感覚・・・それが、その生のままで、教育に持ち込まれた・・・・戦後の教育で育った我々世代も、また、現在学んでいる子供達も、己が育つべき教育環境にはないのではないか・・・

教育者は、明治維新の功績として「教育」を挙げるが果たしてそうか・・・結局、形としての教育からは、軍閥の跋扈と言う現実を誕生させ、その教育のエッセンスが機能した戦後復興そして、高度経済成長には、有効ではあったが、その教育の寿命は、今日、此処にきて尽きたのではないか・・・と、私は思う。
明治・大正・そして昭和の初期・・・新しい文明の洪水は容赦なく押し寄せたのであろう。戦艦大和零戦も、その産物だったのだと私は思う。しかし、その文明でもって、江戸が、明治が育てた人材を消滅せしめ・・・そこから、次の時代の人材を生みだすことなく、新しい文明の洪水の中に、国民・市民を飲み込むがままに任せた・・・今日の状況である。

私などは、その戦後の「第一世代」なのだろう。「坂の上の雲」の中に、乃木大将の漢詩を読み、今朝は、石川九陽の書をTVに鑑賞し・・・何かを忘れたままに今日に至った「私」の事を考える。教育が悪かった、親が悪かった・・・と、他の所為にすることは易い、それで満足すれば、何を語るも意味がない・・・己に足らざることの意味を考えるのが、「考える」ということなのだろう。

日露戦争の外交を背負った「小村寿太郎」を、教育したのは、祖母であったと言う。つまり、漢書に基づく形而上学的な教育が、3歳の頃から間断なく与えられていたのだと、その伝記にある。しかも、「飫肥」と言う、日本列島の偏狭である。幕末から、明治末期まで、日本を支えた英知は・叡智は、何処にあっても、この様に育てられたのであろう。
経済的な搾取は、明治の方が、江戸時代に増して厳しかったと歴史家は言う。現に、百姓一揆、打ち壊しの件数は、明治の数十年の間・・・江戸の倍でもあったと言う論者もいる。日本海海戦に闘った軍艦・・・バルチック艦隊に引けをとらないと言っても、司馬遼太郎が描く如く「1セット」しか存在しなかったのである。ここで、軍艦を失えば、後は、列島上の陸戦しかない・・・形而上学的な思考は通用しない世界・時代・・・戦後の教育が、全く見失っていたもんどえあったと、75歳の今になって、我が身を回顧する。

もし、我々世代が評価されるとすれば、所得倍増と言う「飴」で、民主主義の道路を発しても、「独裁」を回避したことであろう。社会党共産党・・・その独裁の実現に向けた情熱を、失わしめた功績は大きいと言えるのかも知れない。しかし、左翼化する教育環境のなかで、薄氷を踏む思いで経過した、社会党凋落までの「時間」ではなかったか・・・

その中で、左翼思想に支えられた「教育」が、その質に置いて凋落したのは当然であろう。男たちは、子育てとは無縁のままに、産業戦士として、粉骨砕身・経済を支えた・・・しかし、経済が一国単独では存在し得ないことを知らしめさせられたのが、今日の経済状況である。
そして、経済環境の悪化のなかで、母親が「monster化」していって、これも今日がある。マハラジャで踊りまくっていた母親に教養を求めるのは、もともと無理である。そして、今日の母親は、その系譜にあり、AKB48等も、その若年化に過ぎない。AKB48は、さしずめ、次世代の「monster・mama」なのである。
「男は、男性は・・・」との反論もあるだろう。女房に、恋人に尻を叩かれて、働く意味を探ることなく、スナックでカラオケを楽しんでいる間に、「脳」の中が抜けてしまった・・・NHKが、此処に来て、「坂の上の雲」のドラマ化に踏み切った所以でもあるだろうと、私は推察する。

脱サラで教師になった、元部下からの年賀状に、長谷川博一の著を読んで欲しいとのコメントがある。幼児虐待、苛め・・・の研究者であるらしい。検索で幾つかの著書名を知ったが、その表題からは、読む気が起らない・・・・つまり、現状を嘆き、政治の所為にして、自らの世代の責務を脇に置いた論説ではないか・・・そうだろう・・・との、気持ちを抱かせるからである。

おそらく、著者の世代は、私世代の後ろだろう・・・現状についての責任を免責される世代とも言える・・・ならば、明治政府が、「国民」を創ることに粉骨砕身した故事に習う義務はあるだろう・・・つまり、嘆くだけで、今を脱することは出来ないと思うからである。
渋柿が、吊るされて、太陽エネルギーを吸収して、自らの中にある「渋味」を「甘さ」に変える。その努力をするのは、現役の責務である・・・つまり「愚痴」なら、誰でも可能なのである・・・また、世代に継承される「文明・文化」は、決して「棚ぼた」ではない・・・そんな時代は存在しない。

NHKの討論会(様)の番組を二つ視聴した。ひとつは、第一線で実業に携わり、「もの造り」の現場を知る方々の討論会・・・夢のある話、また、日本の企業の活躍が、希望を以って語られていた。
もう一つは、1970以降に生れた、IT関連の実務者や大学関係者、評論家、あるいは、NPOの関係者・・・こちらは、「話す・語る」ことのルールを無視した、まったく無教養的な座談会だったから、結局、私レベルの人間には、何も理解できず、何も得るものはなかった・・・時間失っただけ・・・つまり、この世代が、暫くは、日本を背負っていくのだろうが、甚だ心もとない話である。つまり、自己満足はあっても、それを伝える術をしらない・・・教養がない・・・monster・mamaと同列の論者たちなのである。おそらく、実を結ぶこと無く消える運命にある人々なのだろう。

面白くもないTVを多少でも面白くしてくれたのは、池上章の講座だった・・・非常に長時間なので、全部を視聴したのではないが・・・現代史の面白さを余すところなく語ってくれた。今は、消えたが、NHK・BS−2を復活させて、この中で、repeatさせながら、常時放映してくれると、国民・市民の教養も随分と高く・深くなるのではないか・・・多少なりとも、あるいは瞬時であっても、啓蒙された満足の中に思ったものだった。

案外に、新しいTV放送の姿を暗示しているのかも知れない・・・そうあって欲しいとも・・・