食べログ・・・の怪・・・阿呆らしさの極み!

グルメ・・・舌の肥えた人はいるだろうな! 味音痴の私でも思う。隠し味を当てたり、形姿が分からなくなっている「料理」の材料・・・例えば、完全に煮崩れした野菜などを見事に、言い当てる・・・実は、私に説明しているのだが・・・凄いものだなぁ・・・と感心する。しかし、客としてであれ、小さな店のカウンターであれ、時には、高級感のある割烹であれ、その料理が、不味いとか、美味しいとか言わない・・・そんな方を、私は尊敬しても、「美味しい店を紹介してやる・・・」とか、「どうだ!この店、旨いだろう・・・」とか、その店を知っていることが自慢の様な、味自慢は信用しない・・・。私自身は、朝一番の、一口の味噌汁に勝るものはない・・・と感じる、その感性を大事にしたいと思うからである。

何かしら、客に説教ばかりする・・・嗜虐的な客が喜ぶのだそうだが、友人から、そんな店(寿司)に連れ込まれた・・・寿司が、一貫出て来る度に、旨いでしょう・・・と、自慢する。材料を自慢しているのかも知れないのだが、ならば、その理由の説明も必要だろう・・・しかし、「旨いでしょう・・・」の強制である。黙って食べていたのだが、ついポロリと悪い癖が出た・・・「不味いのも味の中だよ・・・」と。途端に、態度が横柄になり、私に悪態をつき、私の友人を責めた・・・友人からは、礼儀知らず・・・と、罵られた。

書画骨董、あるいは、東西の名画と言われる「絵」等は、色々な人・・・知識・教養の豊かな人・・・が、色々に評価し、説明を聴かせてくれる。歴史を知れば、見えなかったことも見えて来る。大事な部分を視野に感じることも可能になり、絵の見方、感じかたも違ってくる。音楽も、また然りである。何時もCDやTVで聞いていて、同じ音楽を、演奏会の場で聴くと、まったく違ったものに聴こえることがある。また、その曲が作られた時代、経緯、そして、その周りに存在した人々の生き様や、環境を知ると、その響きの中に、CDの平板な音楽とは違った音の輝きを感じることも、ないでもない。演奏会場で聴き・・・もう一度聴きたいとCDを聴く。音楽的には違っても、演奏会場の感激を記憶の中に手繰ることも可能である。

今般指摘されている「ヤラセ」的なブログの書き込み・・・私には、それを信じて・・・つまり、自分に「味」に関しての感性も知識もない輩の存在を暴いた快挙だと思えなくもない。いや、そう考えるべきであろう。ある報道によると、八百長、詐欺の立検もあるとか報じているが、私にしてみれば、表彰してあげても良い位のものである。

そもそも「外食」とは、社交的なものであろうと私は考える・・・だから、外食の機会が少ない、あるいは全くない期間だってある。ファミリーレストランが、出現すたころは、店内も綺麗だったし、客のマナーも良かった。子供が数歳の頃に度々同伴させて、店の美しさ・・・とりわけトイレ・・・に喜んだものだが、今は、「餓鬼」の傍若無人が目立つだけ・・・結局、子供連れの親には、「安物買いの銭失い・・・」に成っているのではないかと、私は危惧する。

引揚者の貧困家庭で育った私は、植民地の生活の中で、比較的上品な人々との交流の洗礼を受けていたが・・・それでも、外食が常だったわけでもないが、来客への礼儀は、結構厳しく仕込まれていた・・・勿論、内地では、全く無用の長物・・・成人になった私は「野蛮人」になっていた。
30歳過ぎて、エンジニアリング部門に転籍し、社外の方々との交流が始まって、まず苦労したのが、食事のマナー、そして、場所をわきまえたエチケット・・・引揚者の生活の中では、全く別世界・・・時に恥をかきながら、少しづつ、上司に教わり、時に叱責を受け・・・あるいは、接待側の優しいマナーに助けられて、約30年を、大禍なく過すことが出来た。ただ当時は、職場の宴会でも、席順は厳しく躾られたし、身分差と「長幼の序」はきちんとしていて、「不礼講」は、二次会ならともかく、滅多に許されるものではなかった。また、お酌のお姐さん達も、新・社会人には厳しかったのである。
まだ、貧しかった家庭で生き届かなかった「躾」を、社会が行う・・・そんなシステムが存在したのも、日本の戦後だったのである・・・この認識のない昨今が残念である。また、若輩に「躾」のチャンスを当てるには、シニアークラスのマナーにも厳しいものが要求される・・・特に、宴会の一次会では・・・故に、二次会の不礼講の効用があったのであり、「胸を割って語る・・・」こと意味もあったと言うべきだろう。若輩への「躾」とは、シニアーの忸怩たる内的な感情からなされるものであり、シニアーを正義の権化とするものではない・・・この匙加減が、現在に存在するのだろうか・・・。

話が、とんでもない所に脱線したが・・・・時に、贅沢な環境で、贅沢な食事をする・・・日本の豊かさで不可能ではないだろう。その為に、日常の「家庭料理」が重要なのである。日頃から、安かろう悪かろうの無駄に溢れた食事・・・コンビニの出来あい食事等・・・に無駄使いしていることが、生活の負担になっていることを、今一度確認すべきであろう。1年に1度、あるいは、数年に一度・・・贅沢とは、印象に残らねばならぬ・・・そして、「家庭料理」の味も、また生きて来るのである。

「家庭料理」が、しっかりしていれば、世界中に「美味な料理」は存在しない・・・しかし、家庭の味とは、一味異成った味をしることは、また、家庭の味の幅を広げることに有効だろう・・・また、家庭の味を自慢し合うことから、人の交流も広がる・・・つくねんと、ブログに美味しいと言われる店で、料理人の顔色を伺いながらする食事・・・・そんなものに価値があると考える根性が、そもそも「気違い沙汰」なのである。