カネミ油症の怪・・・・国家が見放した被害者達・・・・一人の命は、国家よりも軽い・・・・?


「かねみ油症」・・・極めて地域限定的な、食品公害である・・・勿論、例外的な被害も存在するが・・・・。芭蕉は、「北九州市」・・・発覚したのは、諸和う43年。噂は、随分前からあったのだと言う。私の家人も、高価な食用油だったし、売られている店も限定的だったし、北九州市から少し離れていたこともあって、日常的に使うまでには至っていなかったと言う。つまり、利用者には、「高価=安全」の意識を植え付けていた諸品だったのである。その数年前には、「森永・ヒ素ミルク」等の事件もあり、食品の安全についての良識は、普遍的なものになっていたはずである。

食害要因の混入は、簡単な設備的欠陥であり、日常的な点検がきちんと為されておれば、充分に防げたと確証できるものである。地方都市の、小さな企業が、地域限定的に売り出し、そろそろ全国展開に力を入れようかと・・・その初期の過程で発生した事故であり、事件であったと言えるだろう。

事業の拡張展開の時期は、そのコストねん出の為に、安全面での注意が疎かになり、「量」に起因して発症する「害」の部分への目を塞ぐ傾向になる。製造関係者の気持ちが浮つき、見るべきものを見ず、また、ある種の危険の兆候が見えていても、それを継続して観察する気持ちが疎かになる・・・「もの作り」の隘路の一つである。

また、今日の様に、スーパーマーケットが林立している時代なら兎も角、多少の事故があっても、個人的な問題として処理され、「噂」として消滅し、事故の連続が認識されることがなく、深く静かに伝播し、病院での把握も、ぼちぼちとなって、データ的に不審視されるチャンスも少なく、事業者側の意識を刺激することもなく、クレームについては、若干の「お金」を握らせることで、処理してしまい、手遅れになる。その典型的な事件である。企業が、故意に、あるいは、似非科学者まで動員して、事故の責任回避に奔走した事件とは、多少の色合いを異にする。

しかし、発生場所は、北九州である。大企業の工場が林立している場所である。まだ、各企業は、直営の販売所を有していたころでもあるだろう・・・名称は変わっても。其処で売られていなかったか・・・その検証もされていないままに、製造者と被害者の、泥沼的な紛争が拡大した・・・私には、その印象がある。昭和44年ごろから、相棒となった後輩が、かなり酷い被害者だったのである。月に何度か、関東方面への出張に出掛ける必要のある職場だったので、彼には、可なりな不安だったが、得難い人材だったので、私も無理して、勤めてもらった。
彼は、5人家族・・・しかし、発症しているのは、彼一人・・・この現象が、この食品公害の扱い難さを生んでいるのであるが、まだ、その原因は判明していないのではないか・・・ある意味、北九州という地場の医療の怠慢だと考えるのだが、「お医者様」に異議を唱え、問題の究明をすることは、己の生命を賭ける勇気が迫られる・・・あれこれ、「良き薬」を求めて彷徨うだけが、庶民に可能な行動である・・・と、言う悲しい現実は、人間社会の問題として、黙認せざるを得ない。

また、「他人の痛みは、百年でも我慢できる」・・・私の後輩の場合もそうだが、周りの同情を得られないのが、この病の隘路でもある・・・汚いと嫌がられても・・・現に、出張先での、共同風呂での入浴には、気の毒なほど、神経を使っていた・・・・また、時に、顔面に病状が現れることがると、企業指定の旅館・ホテルでも、あからさまに「嫌悪」の表情を見せたものである・・・チェックインは、私が殆ど行っていたことを、今も思い出す。

さらに、労働組合の、被害者への圧迫・・・これも、この問題の解への道を遠回りさせる隘路である。北九州市の当時は、大企業が林立し、メーデーは賑やかなものだった。このメーデーに、この問題がアッピールされることは皆無ではなかったのか。後輩の場合も、「余り騒ぐな・・・」との、組合からの干渉も度々行われていたはずである。彼の悔し涙を何度目にした事か・・・遂には、陰に陽に繰り返される、各種の嫌がらせ・・・表現しようもないものだが・・・に、遂には、退職に追い込まれた。

確かに、一時的には、過激な運動を思わせるものもあっただろう。しかし、今日明らかな様に、子や孫への遺伝・・・彼らが、怖れたことの一つであり、最大の恐怖だったのである。彼等の足下を見て、「漢方」が、「妙薬」だ・・・と、むさぼる連中もいたと聴く・・・C型肝炎が、あれだけ騒がれていて、何故、「カネミ油症が・・・」と、私は思わざるを得ない・・・また、C型肝炎で有名人となり、今は議員でも、先日のTVの映像では、カネミ油症には、可なり冷たい対応が感じられた・・・議員に至っては、「今は、それどころではない・・・」との、冷たい仕打ちである。労働組合出身者が多い民主党にして、昔の傷痕を抉られる難しい問題なのかも知れない・・・その意味では、彼等は、完全に見捨てられたと言うべきだろう。
その意味では、C型肝炎のキャンペーンもまた、可なりな所、人間性を欠いたものでもあるのだろうか・・・・あるいは、これが人間の限界なのだろうか・・・・しかし、次のことは、声を大きく訴えたい・・・・
わが国では、大企業、公務員・・・特に国家公務員、司法関係者、学者・研究者には、食品公害病は発生しない不思議さがある。彼等は、その様な体質を以って、その職に当っているのだろうか・・・被害者・患者になる方々とは、人種が違うのか、DNAが違うのか・・・・またそれを自認しているから、被害者への関心が薄いのだろうか・・・・この疑問に答えられるのか・・・・!・・・と。