政治とメディアの悪なるタッグ・・・・

この国では、政治家は信用されない・・・勿論、明治期の、一生を政治に捧げる、己の「青雲の志」を実践した政治家が、「日本」と言う国家を誕生せしめ、「日本国民」と言う国民を誕生せしめて、今日、我々の日本が存在することは言うまでもない。数年間に亘ってTVに放映された、ドラマ・「坂の上の雲」に登場する「軍人」、「政治家」・・・西郷隆盛は、その生活ぶりを非難するが、その「志」は買うべきだろう・・・自ら、犬を引き連れて狩りを楽しむ生活を「清貧」とは言わないだろう・・・寧ろ、「政争」と揶揄されようとも、自らの理想の実現に己を掛ける覚悟・・・そして、40歳過ぎまで隠忍自重・・・閑職に甘んじながら、己の使命をわすれなかった「小村寿太郎」の様な人物を、今日の日本人は殆ど評価しないし、少年、青年は、憧れようとはしない。
東郷平八郎山県有朋・・・も、その晩節は評価できない。西郷隆盛にして例外ではない。

アスリートにして、親孝行をしたい。親を楽にしてあげたい。・・・政治家・・・地方、中央・・・にして、名声を博し、後世に「名」を残したいだけ・・・また、国民は、彼等を利用して、自らの懐を肥やしたい・・・・個人的な、小さな利、利権を得たい、守りたい・・・「政治資金法」とは、そんな空気の中に誕生した、ヤクザか盗賊か・・・そんな思わせぶりな政治家を、国民が取り締まる為の「法律」が、そんな法律の存在を自らの恥とせねならぬのに、そんな事には無頓着、「大きな抜け穴」を作って、其処から、国民をあざ笑う・・・そんな政治家を崇める国民すらも、生みだしているのが、現状の日本なのである。
政界に君臨し、マスコミ・メディアに毎日、大きな見出しで名前が出る・・・そんな息子を持った親は、誇りを感じるだろう・・・黄泉の国でも、自慢しているかもしれない。政治家としての資質、あるいは、その成果と矜持とは無関係・・・「親孝行」とは、本来、それだけの事・・底の浅いものである。「忠君・愛国・親孝行」・・・こんなものが評価されている限り、この国の未来は危うい・・・私の危惧である。
日本海海戦で処理した秋山真之が、臨終に間に合わなかった母の遺体に、その戦勝を報告し、そして、母に尋ねる・・・「俺のしたことは、皆の為に、少しは約に立ったかのう・・・」と。これが、明治の軍人であり、彼等を働かせた、明治の政治家達であった・・・。

今、政治家が、選挙区に帰って、「少しは役に立ったか・・・」と、謙虚に報告できるのだろうか。

政治資金収支報告書」には、代表の「印・署名」が必要ない・・・こんな抜け穴・法律を放置していたのは、マスコミ・メディアの責任であろう。改めるまで、新聞の一面に。報道の枠を設けて、読者に訴えるべきであったろう・・・そして、「政治資金法」の真意を国民に常に働きかけ、その政治姿勢を、国民自身が問い続ける環境を保持すべきであったと、私は考える。「信頼」ではなく「義務」の履行である。
マスコミは、時として「失敗」を起こしながら世論を動かし、世論を導き、時に扇動しながら、政治への関心を掘り起こしてきた・・・それなりの評価は可能だろう・・・「知らしめた・・・」と言う意味で・・・。しかし、表を繕いながら、表向き正義を装いながら、世論に押されながら、世論を造っているポーズは、昨今のことではないか・・・。読者の投稿欄も、各社とも、最近はの採用・意見は、殆ど意味のない投稿ばかり・・・外交に内政に感じる緊張感は全くない。年寄りの繰り言と、幼稚な若者の文章だけが掲載されている・・・。編集子は、中学生程度の投稿を歓迎するのだと言うから・・・新聞の凋落は甚だしいものがある。社説に緊張感がないも頷ける。新聞が、TVの番組欄の為に必要とされるようになって久しいし、折り込みチラシのツールと化して久しい・・・所詮は、滅びゆく文明なのかも知れない。

野田総理も、メディアも、最期の足掻きで良いから・・・政治の姿勢を変えることに、初心に帰って奮闘努力が出来ないものか・・・・小沢一郎への批判すらない昨今・・・野田総理の言う、「政治資金収支報告書」へのマナーも明確にならない。国民負担の「政治資金」が、政治家・議員の離合集散の道具化している現在に、呆れている国民も少なくはないだろう・・・私でさえ、そうなのだから・・・。批判の矛先が、何処へ向かっているのか分からなくなった・・・政治が「亡霊化」している証でもあるだろう。