節度とルールと・・・・

人間が作り、運営する「社会」である。更に言えば、人間は、常に「良きもの・・・」への憧憬の中で生き続け、欲求を満足せんと努力し、欲張り、その結果を自らに引きつける、結果の「負」を負う覚悟は薄いものである。各種・公害も、その環境の中で生れたものである。
端的に言えば、「洪水」などと言うものは、自然界には存在しない。人間が、勝手に水路を作って、其処を流れることを「水」に要求するから、川の容量が耐えきれなくなれば水は溢れる。それを洪水と言うのである。
小さな洪水を怖れて、堤防を高くすれば、その堤防を超える洪水の被害は、大きくなる。低い堤防で、我慢して、多少の洪水の頻発を我慢すれば・・・「負」的な被害を我慢すれば・・・大きな被害は免れる・・・・しかし、そんな賢明な論は、多数の大衆の聞き入れるところとはならない。「専門家」の言葉が理解できず、理解の上で、次のステップに自らを止揚しようとする意欲に欠けるのが大衆であり、目先の貪欲さに、次の大きな悲劇を招き寄せる。

大飯原発の「安全に関する専門家会議」の紛争・・・会議開催の前提が気に入らないからと言って、会議場に乱入する等は、暴虐無人と言わざるを得ない。何故、モニターで会議の模様を観察し、意見を聴き・・・そん上で、自分達で、次のステップが必要なら、その手段を考え、実行すべきではないのか・・・言論の自由とは、そのことが可能なことを言うのである。
自分達の「専門家会議」を開催する実力がないが故に、政府の行動を暴力的に粉砕すると言うのは、まずもって、国民にあるまじきマナーではある。この国で、「市民活動」の規模が大きくならない原因が、この節度なき運動家のマナーがある。その点で、強力な、かつ暴虐な権力と闘って来た西欧の市民は、その節度・マナーを、良きものとして、生活の中で継承している。その点では、日本は、まだまだ後進国と言うべきだろう。イスラムの民衆暴動に近いものがあるのかも知れない・・・大事に至らないのは、イスラム程のエネルギーを有しないだけのことだろう。

オルテガ西部邁が、言うところの、「権力としての大衆」の姿であり、懸命に墓穴を掘る姿でもあるだろう・・・と、私は思う。

原発は危険な施設であり、重大な事故を惹起する技術である。しかし、片や、エネルギーなくしては存在し得ない技術の世界に我々は生きているし、子孫を繋いでいるのである。「戦争」もまたしかり、「武器」もまた然り・・・・原発以上に危ないのは「核」であろうが、日常は目につかないから、無関心である。また、危険は、経験のない所に生れ、経験を無視した時に、生命が脅かされることを謙虚に学び、お互いに確認しながら用心深く日々を送る謙虚さが「欠如」した所に、時に惹起する。

しかし、40年間稼働させてきた原発であり、日々改良・改善が行われている技術であり、設備でもある。罵声を投げつけあって、明日はないだろう。暴力沙汰、刃傷沙汰になれば、放射能ならずとも、「命」を失う・傷つける。暴徒と化した市民活動家の面々・・・有名タレントが、正義の味方の如くに君臨し、市民を、「無知蒙昧の輩」の如くに見下している姿が、TVの中に印象的だった。むしろ、モニター室で、静かに視聴して、その問題点、あるいは、市民感覚の意見を開陳、陳情する方法に徹するべきではなかったか・・・一部学者が、会議の開催形態を非難する様子があったが、これも、パフォーマンスだろう。少数派の己の姿を大きく見せたい・・・嘗ての大本営的マナーではある。
もし、彼に良識があるなら・・・市民活動家が暴徒化する前に、どの様な点に注意をしながら、モニターリングをするべきか・・・市民を啓蒙するべきだったのである。喧噪の中で会議が進行出来るのか・・・私は、このパフォーマンス学者の姿に、嘗ての、戦争を陰で指導した「右翼」の姿を連想する。学者としては有るまじき姿ではある。
原発に嫌悪を見せる・・・表向きだろう・・・学者も、原始力エネルギーを撲滅するために、研究に携わっているのではないだろう。「世論」という、得体のしれない扇動にのって、自らの立場を強化しようとしているだけではないのか・・・・「戦争反対」を叫ぶ知識人が、最も戦争に詳しく、愚衆をして、紛争に駆り立てる傾向にあることに、私は感じる。