議員定数減・・・・
消費税率UPの代償として、議員定数減と、歳費引き下げが、殆ど避け難い公約になりつつある。この善し悪しを論じる程に、私に知識はないのだが・・・ただ、やみくもに減らせば良い、報酬を少なくすれば良い・・・と、いうものでもないだろう。
最も、西欧では、地方であれ、議員であれ、「無報酬」が理想だとの理念がある・・・かの有名な「カレーの市民」も、無報酬だったのだと・・・当時は、有力者の有力者の為の市政であり国政であったことを無視できないにしても、「頭脳」で、万民に奉仕する精神は学ぶべきなのだと思う。しかし、大衆化した社会で無報酬は、「汚職」を生みやすい・・・況や、大衆が権力者になっているこの国に於いてや・・・・故に、古代ギリシャでは、「貝殻追放」なるシステムも存在したのである。しかし、これすらも、ポピュリズムが蔓延れば・・・現・民主党政権の誕生に見られる様な・・・・ペルシャ戦争を大勝利に導いた優秀な指揮官を、愚民化した市民が、追放してしまい、国家の悲劇を招いた歴史もある。
政治とは、難しいものだが、その難しさが、我々・市民・国民の側に大きな要因として存在することを忘れてはならないのである。

今回、野田政権の提案している議員定数・是正・・・「比例区」を80名減は、分かりやすいし、実行に左程のシステム変更を要しない・・・つまりは、安易な方法である。そして、全国の小選挙区に候補者を擁立するには困難を避けられない・・・人材がいないと言うことでもあるのだが・・・少数政党には辛いものがあるだろう・・・と言うことは想像に難くない。

しかし、それだからこそ、「大同小異」と言うことがあるのではないか。公明党の様に宗教的理念を立党の精神にしている政党には難しいことかもしれないが、社民党共産党なら、「大同小異」の立党が可能であり、「左」への距離は、その時の政治情勢で、修正可能なのではないのか・・・時に、左に寄り、時に右に寄り・・・・嘗ての、左右合同の結果誕生した社会党の様に・・・もっとも、元気な党首が現れれば、党内の政策論議よりも格好の良いスローガンに酔ってしまって、脱党者が相次ぎ、少数政党になってしまったが・・・これも、「大同小異」の精神を生かし得なかった結果に過ぎない。世情あるいは、近未来の展望から、自ら、党内少数派に徹して、多数派の政策修正に貢献する・・・その様な政治家らしい見識があれば、あるいは、夫々に「少数政党」に堕する必要もないのだろう・・・私は考える。
あえて言えば、公明党も、キリスト教の教義を大事に考える政治家との連携で、大きな政党に変身することが可能なのではないか。癒し、救い、或いは許し(恕)の理念が、宗教感覚として、それ程大きなものとは私は思わない・・・現にNPOや被災地のボランティア等では、宗教の枠を超えて共同作業が可能になっているではないか・・・仏教、キリスト教イスラム教・・・その他の宗教も、「教祖様」を、各自の胸の中に収めたら、これも、現実世界の「大同小異」を勘案しながら、協力できないものでもないだろう・・・政治が、「数」の理念から脱することが不可能なら、「宗教」も、宗教的「数」を政治の理念とするのではなく、「合意」を、政治の理念とするべきだろう。
少なくとも、宗教・宗派をもって政治勢力を競うとすれば、これは、民主主義後進国の誹りを免れないのではないか・・・ヨーロッパが、イスラムの拡大を怖れるのも、自らが、キリスト教の旗印を大きく掲げるからであり、ユダヤイスラムの対立の構造を抜け出せない原因でもあるだろうと、私は考える。
その意味で、「共和党VS民主党」の対立の中に、イスラムユダヤも溶かしこんで、宗教を表に見せない、アメリカの政党の在り方を私は称賛したい。メイフラワーの「12家族」の理念が、今日も生かされ、後退しないアメリカ国民の強い信念を、私は感じる・・・。

また、他の弱小政党も、その主張が殆ど変わらない・・・自民党的・・・のに、政党の主張を、時の政権の「反」として存在を主張する・・・反動分して存在に成り下がっていて、私には、政治理念の存在すら感じない。「大同小異」につけば、恐らく、民主党・小沢派、あるいは自民党に溶かされる運命にあるからだろう。「我儘」の一言に尽きるし、母親の足下で、駄々をこねる幼児に等しい・・・・こんな分子の言葉・主張に耳を傾ける必要はないだろう。正に「雑音」である。

やっと、悪口を言い終えた・・・・

選挙区で落選しても、比例で当選可能・・・この現在のシステムは、何としても廃して欲しいものである。選挙区で敗北したと言うことは、選挙区の政治家としての「廃品」を宣告されたのである。これを、比例区で当選させることに何の意味があるのか・・・比例区とは、選挙区とは異なる視点で選ばれる政治家であろう。
如何なる地域でも、少数派に属する「良識」が存在する。その良識を「是」とする市民の票を生かすべく価値のある「選挙区の大きさ」が比例区の意味だろう。存在の意味が違うものを、いっしょくたにしてしまう現行の選挙思考・・・味噌も糞も一緒くたにして、候補者救済の具に出した選挙だと私は断じたい。
もし、これに固執するなら、県単位程度の中選挙区として、比例代表的選挙を行うべきであろう・・・と、思うが、我々の「浅はかさ」が破壊した、参議院選挙の愚を繰り返さない工夫は必要だろう。
つまり、全国区と地方区(ほぼ県単位)の行われていた参議院・・・戦後のしばらくは、文学者や哲学者、時に科学者・議員もいて、文字通り多士済々だった・・・これに、政党が悪乗りして、有名タレントを起用して、党勢拡大を図ったことが、今日的政治の貧困化を生んでいるのである。

勿論、タレントが、政治家として成長することもある。現在も、それなりに働いている、実績を残している人もいる・・・・また、その様な政治家を生みだしやすいのが、大選挙区であることも、認めねばならない。反面で、既存の政治家には不足する「政治理念」を我々に見せてくれる有効性も大事にしたいと、私は思う。それが、嘗ての緑風会だった・・・・。

現・民主党政権が、嘘で固めたマニフェストと、小沢一郎の「金と舌」で実現し、今日の政治的混乱を招いていることは明らかである。「俺が作った政権・・・」との小沢一郎の「霊」が、いま、民主党の暗雲になっている・・・去ってくれればいいのだが、暗雲を洪水にしたい小沢一郎が、そう簡単にその座を譲るはずがない・・・イチカパチか・・・選挙をするのが正しいと思うのだが、また同じ轍を踏む可能性もある・・・その可能性は、有権者の無責任・大衆性・・・国民の信用が、政治家の信用以上に低下していることにあるのだと、私は考える。

まだ、始まったばかりの、我国の民主主義・・・有権者個々人が、その選択の度に、その結果について静かに反省し、成長しなければならない・・・その覚悟があるや、否や・・・!・・・私の自戒でもある。