脱法ハーブと子供たち・・・・

脱法ハーブで、少年数人が逮捕(補導と言うべきか)のニュース。覚せい剤としての定義に入る薬草との違いが、私にはわからないのだが、身体の正常性を失わしめるものであることは確かな様だ・・・「脱法ハーブ」だから、法に触れない・・・と、言うのも詭弁じみて聞こえるが、少年達に体験させた大人達、販売した大人達にとっては、違法ではないとの認識かもしれない。「法」で禁じられているものが、街に出回っているのであれば、報道も「違法ハーブ」とすべきではないか。

煙草の値上げ・・・近々「1,000円」になると言われる煙草。自動販売機が自由に使えない。大人も、簡単には、身分証明書を貸してはくれない・・・大人が、健全になっている状況ではあるのだが・・・煙草に憧れる少年にとって、「脱法ハーブ」が、干天の慈雨になっているのだろう・・・と、私は推察する。大人の便利を計った中途半端な「法」の存在が、少年達に、或いは、少年達を利用してひと儲けしようとする大人達に、「法」の隙間を探させる結果をうんでいるのではないだろうか。

煙草・・・とりわけ「葉巻」には、status symbolとしての価値がある。また、時代劇に登場する「煙管」には、武士には武士としての、町民には町民としての、そして百姓には百姓あるいは名主・庄屋としてのstatus、誇りを感じさせるものがある。紙巻き煙草の卑しさに憧れる時代はさったのだろう・・・葉巻にしても煙管にしても、めったやたらと、場所を選ばずに喫煙するものではない。紙巻き煙草への傾向が強くなれば、moralなき趣向の撲滅にもなるだろう。癒されなければ生きていけない、努力なき弱者が評価され、同情される「時代」からの決別になるのかも知れない。
Noblesse oblige・・・こんなマナーを自らも実践し、子供達に伝えるのも、大人の責務なのだろうと・・・内心に忸怩たるものを感じないでもない。
「紙巻き煙草は卑しい・・・」・・・主張して行きたいと思う。

私自身は、一般的に、詐欺などの経済事犯の刑の軽さ・・・麻薬密売、密輸、あるいは、販売、使用に関する事犯への罪の軽さを憂い、巧妙に抜け穴を利用される、法整備の甘さも、真剣に問題視されるべきであろうと考える一人である。恐らく、巷に蔓延る「癒し」ということばと、慨念の危なさと、その陰に犯罪を隠蔽する懸念への、世間の油断が、麻薬事犯、飲酒運転事犯等の、甘い処分を生む土壌を生んでいるのではないか・・・。

その反面で、この少年達の将来が、陰に陽に、これらの過去をして、閉ざしてしまっていることを憂う声は多い。
私が、入社試験の後(成績の審査が終わったころだろうか・・・)、私の身上調査が、可なり厳格に行われたことを知ったのは、入社して10年ほどしたころに、その当時の人事担当者と、行きつけのスナックで、それと知らずに知故になり、話の弾みであった。「君の作文は素晴らしかったね・・・」と嬉しい言葉だったが、続いての言葉に、背筋が少し寒くなった。
「引揚げてきたころに、君達家族の隣り住んでいた家主のお爺さんが、幼い日の君と、その後の成長を絶賛していたよ!・・・人が住めるとは思われない酷い家だったが・・・ね」と、このお爺さん・・・私を可愛がってくれた祖母の実弟だったのだが・・・「集落の方々の評判もすこぶる良かった・・・」には驚いた。その方々の庭に侵入しての悪さは日常茶飯事だったし、ボタ山の石炭拾いでは、その方の石炭をどれほど横領した事か・・・それでも、この方々のお陰で、「今」があるのだと・・・当時は既に離れて、疎遠になった方々だったが、グラスを傾けながら、「感謝」しかなかった。
大企業では、事前でも、中小企業では、その後に齎せられる情報には過敏なのだと言う・・・勿論、働き振りが良ければ、新たな信頼を得るチャンスはあるだろうが、要らざる「観察」の対象にならざるを得ない・・・・つまり、世間・社会は、その同義的問題は脇において、「選別」があり、「格差」があり、「差別」があるものなのである。
勿論、シーナ・アイエンガー教授も言う、誕生の運命に、「格差」、「差別」の苛酷な鞭をあてることは許されない。しかし、自らが、その種子を播いては、それを非難することすら不可能なのではないか。「遭遇」にチャンスが与えられず、「選択」の幅は狭められる・・・与えられるべき「選択」の権利さえ失いかねない。少年の日の、ある瞬間の「癒しへ」の軽率さが、自らの人生に「陥穽」を準備することになる・・・それを教えるのが、大人なのだが、その大人が、「癒し」を優先すると、「脱法ハーブ」に手を伸ばす動機を与えてしまうのではないか・・・大人の重要な責任と言うべきかも知れない・・・と、考える。

身上調査は違法だ・・・privacyの侵害だ・・・と叫ぶ声が聞こえる。しかし、人は、信頼の上に、その絆を求めるものである。「何処の馬の骨・・・」なる言葉が「死語」になることはあるまい。「侵害されざるprivacyとは?」、膝に傷を持つ私も、その傷の存在を忘れたことはない。
少年達の成長の暁に、「脱法ハーブ」の事績が、どの様に影響するのか、私にも判断は出来ない。「脱法」が「合法」に変わることがないとは断言できない。反面で、もっと厳しい「法規制」が掛けられる様になるのかも知れない。その判断は容易ではないが・・・しかし、移民の少ないこの国で、「法規制が緩む」期待は、無駄な期待だろう。

格差・差別・・・・在ってはならない・・・しかし、その論理で「犯罪」の道を広くすることもあってはならないのである。また、自活であれ、就職であれ、人間の交流を避けることは不可能である。兼好法師鴨長明・・・彼等とて、世間と全くの無縁であったのではない。その距離の取り方に工夫があっただけのことである。
地域に置いて周辺との交流の少なさ、薄さ・・・特に、子供が、親に囲まれて、懐に抱き込まれて、世間性が育たない・・・これも時代の「風」として是認するしかないのだが・・・それだけに、privacyが歪められる危険性は大きい。
TVにパソコンに、ケイタイに情報は多い・・・5歳、10歳でも、私の時代の30歳以上の情報に、日常的に触れているだろう。情報から学ぶとは、情報を理解することを学ばねば危険この上ないことを知るべきだろう。教室で、それを教える教師は少ない・・・情報過多の社会に生きる「先達」としての君達の現在があると、覚悟をするべきだろう。私達世代には、なし得なかったことなのである。「脱法ハーブ」・・・君達にとっては、世間は「地雷原」化しつつあると、知るべきだろう。辛い「警告」だが・・・・。