雪下ろし・・・・

今朝のニュースでは、雪下ろしの事故で亡くなった方が、51人、その内、65歳以上の高齢者が30人超・・・数万人の街で、何人も亡くなっているのだろうから、生産工場だったら、大変な「災害率」・・・つまり、「殺人工場・現場」と言うことになる。この状況が、毎年ではなくても、少なくとも数年毎に繰り返されているのではないか・・・豪雪地域は、「殺人area」と言えなくもない。

Newsの映像を、素人の眼が見た感覚だが、私の住む九州と、家の構造・・・なかんずく「屋根」の構造が、余り違わないことに多少の驚きを隠せない。飛騨の世界遺産になった、民家の屋根を、雪深地方の家屋の屋根として想像していた私の知識が間違っているのだろうか・・・。

屋根の傾斜をきつくすれば、家の建設costも高くなるだろう。しかし、「金銭」に代えられないcostなのではないか。かつての藁屋根の頃は、屋根の傾斜の、もう少しきつかったのではないか・・・想像の範囲だが・・・そして、古民家としての存在だった「家」は、梁も、屋根の構造もしっかりしていて、豪雪にも耐え得るものだったのだろう。そうでなければ、人は住まなかったであろうから・・・・。
そして、その頃は、若い人も多く、雪下ろしの労働力にも事欠かなかったのであろう。それらの前提を無視して、屋根を瓦にし、あるいは、新素材に変更して、見た眼にもsmartな家に改築した・・・それが、豪雪地帯に相応しくない「家」になることには無関心に・・・。そして、若い人が家を離れ、雪下ろしの出来ない人間になり、父母や祖父母の住む故郷を懐かしく思っていても、自らが、其処に住むことの出来ない人間に変身しているのである。そして、今にも潰れそうに雪を乗せた屋根の下で、その父母や祖父母が・・・一人で留守番をしている・・・雪の下に命を虚しくした高齢者を「自業自得」と言うには、余りにも哀れであるが、政治には、その生活に干渉し、強権を振い、命を守る義務があったのではないだろうか・・・甘い約束だけをするのが政治ではないだろうと、痛切に思う。勿論、今からでも遅くはないのだが・・・

まず、豪雪に危険な家屋は、早めに解体し、居住areaを広くして、豪雪の際にも、住民の行動を妨げない街作りをする。高齢者、特に独り暮らしの高齢者は、豪雪に苦しまない、あるいは、買物、医療の心配のない体制を行政が完備して移住させる。勿論、費用は、元の、家屋、土地の代金を持って当て、集合住宅の居住費は、無料、あるいは格安とする・・・その集合住宅に診療所を併設すれば、行政費用も格安に抑えられる筈であるし、救急車・往診、あるいは行政連絡・手続きなどの、公的、私的costの節減にもなるだろう。そして、豪雪を心配することなく、安心して、その生涯を全うすることができる・・・子や孫に、家や土地を相続することに「命」を掛けるのであれば、雪下ろしも、雪かきも自分で、命がけで行うべきであるし、公的な支援を要請するべきでもないだろう・・・高齢者とは知恵者でもあるべきだと思う。

恐らく、3.11被災地の再開発にも共通する問題であろうし、その他の、津波予想地(海岸線)にも言える事だし、大河川に沿った街にも言えることだろう。特に、数年毎の、大洪水、集中豪雨、ゲリラ豪雨に襲われる地域にも共通する問題であろうと、私は考える。地球温暖化が、他人事であり、その責任を政治に問うだけでは、自らの命も財産も守れない・・・地下資源がenergyとして地球上に放出され、空中に蓄積する傾向に歯止めはない・・・その速度を緩めることは、あるいは可能でも。しかし、原発嫌悪の感情が、地球温暖化を早める可能性は高い・・・ならば、日々進む温暖化の中に、当面、数十年、数百年の視界で、己の決断を更新しながら、対処する以外に、自らの滅亡を避ける方法はない。つまり、「故郷恋し」も、「子孫繁栄」も程度の問題なのである。親の、祖父母の故郷を守る気持ちも、財力も無くして、「故郷を守れ!」などと、シュプレヒコールは許されないのである。その我儘で、多くの命が失わせしめてはならないのである。
今年の豪雪には間に合わない・・・しかし、その気になれば、4年を待たずして可能なのではないか・・・先ずは、市民・国民が覚悟を決めるべきである。そして、「大」を考えて「小」を捨てる覚悟を新たに出来るか、否か。その覚悟を問うべきである。その時、如何なる理由であれ、「大」につく事を嫌悪する「小」については、見殺しにするべきであろう。政治家も、政党も、その辛選択を国民に訴えるべきであるし、それが可能な政治家、議会として、姿勢を正すべきであろう。