連日の豪雪に考える・・・・

少子化、人口減・・・この傾向の先にあるものは、人口の相対的な都市集中であろう。農村人口の減、地方都市の雄県を除けば、人口減は避けられない。長い歴史の中で、人類が体験してきたことであろうと、私は想像する。その果てに「廃村」があり、地方都市の「シャッター通り」に見られるghost townがあるのは、当然であろう。
豪雪・・・今年に限ったことでもなければ、近代に始まったことでもないし、況や、今世紀に、前世紀に始まった事でもない。言うなれば、人間の高齢への過程が、その晩年・・・とどの詰まりまで来なければ意識されない事に似ているのである。

子供達が、そこに生きるための環境を作ってやれなかったことも、そこに至る経済環境や、政治情勢に無関心だった世代継承に起因する現在があり、それを思考の外に置いて来た時間の経過に過ぎない。時間の経過は視覚には見えないが、その結果である事象が、眼の前にあるのである。その意味では、無駄な、或いは、逆行的な思考や要求、行動を厳しく戒めながら、当面は、今苦境にある己の姿を直視し、合理的且つ必要な政治的要求を真剣に考え、実効を政治に訴えて、その実効をに相応しい人材を国会に送り出すべきだろう。

如何なる姿の地域なら豪雪にも、また「宝」に変ずる事が可能なのか・・・。教育は、農業は、漁業は、あるいは産業は・・・少なくとも、手入れもままならぬ「家」に老いた父を残し、母を残し、豪雪から守ってくれるのは、老いたる人々の善意と若いvolunteer・・・自らが都会に出した、あるいは放逐した・・・後継者は、その「財産」の処分だけという現在だけが、実在しているらしい様子に、傾斜だけを近代的・・・流行に馴染む・・・にして、その雪おろしに人命を危険に晒すnewsが哀しい。

人口の流出が続くのなら、人口が戻らないのなら・・・其処は一旦自然に戻すべきではないか。自然と共存するのは、「力」が必要、「energy」が必要なことは言うまでもない。己が、自然と共に在る姿に合理性があるのか・・・一人の為に、救急車が走る、消防車が走る・・・その為の道路の維持は、行政の出費であり、合理的に、多少の個人的利益を犠牲にして生活する人々の「税」で賄われていることに、己の思考を働かせるのも、国民としての、市民としての義務でもあるだろうと、私は考える。これを「人道的・問題」として批判するなら、批判の方が、余程「非人道的」であろう。これは、「政治」の中に存在する己れ個人の問題としての判断でもあろうし、やみくもに、自然を守る・・・己が共存するために・・・ために、政治costを掛けることを由とするものではないだろう。

祖先たちが、どの様に生き、日々の生活を守って来たのか・・・人類的・初心に返って考えるべきではないか。犠牲になってから考えるのでは、遅すぎるし、哀しすぎる。お互いに生きている者同士で、考えるべきであろう。