屋根の融雪・・・・

屋根の融雪・・・・

周りの家々の屋根には、うず高く「積雪」が、見える・・・これから雪下ろしが必要になるのか、否か・・・そのreportはなかった。しかし、一軒の家・・・可なりの屋敷・・・には、殆ど雪がない。close-upには、屋根に張り巡らされた「融雪」の為の配線の様なものが見える。明るい顔の老夫人が、息子がつけてくれた・・・と、自慢げに、また嬉しそうに話していた。同居しているのだろうと、その様子から思った。

設備費は、200万円、維持費は、シーズンに10万円・・・私は、高価だとは思わない。この地に、安心して住み続けようと思えば、当然の出費でもあるだろう。雪おろしに、相当の対価を払えば、シーズンに10万円の費用は格安だろう。そして、初期投資の200万円も、10年間使えば、一年の償還は20万円・・・運用費の10万円と合わせても、30万円・・・これでも、一年に何度も「雪下ろし」に、正当な対価を払えば、それほど高額とは言えないものではないのだろうか。

勿論、その様な出費のない南国・西日本と比較するのなら、自分が「居」を移す選択をすべきだろう。そして、雪のない冬の生活にもの足りなさを思い、雪国のノスタルジーを思うだけである。どちらを選ぶか・・・選択である。

先日も論じた様に、御先祖様が、生きて来たから、生活を続けて来たから、現在があるのである。今の辛さが嫌なら、この地を捨てるしかないだろう。捨てるのが嫌なら、捨てられない事情があるなら、その事情に合わせて現在を変えるか、あるいは、新しい手段を講じるか・・・それが、知恵ある人間の生きざまであろう。経済的背景も、それらの事情を勘案して、自ら対処して、広義の市民と言われるものである。
「融雪装置」・・・・この様な物が必要になったのは、村から、地域から、あるいは家庭から「若者」の姿が消えたからである。また、家の構造が、都会風になってきた・・・屋根の傾斜が緩くなった・・・ことにもよるだろう。環境の変化とは、人間が引き起こすものだが、その変化に人間は従わなければならない・・・この当然の理屈を忘却して、他人の力・労力を当てにする生き方は、そのまま「乞食根性」である。勿論、社会の制度は、弱者を救うべく、その姿を変えている。つまり、「労」無きものにも、それなりの対応は期待できる・・・その意味では、いんげんの社会・とりわけこの国の政治は、基本的に暖かいのである。しかし、それに甘えるにも程度がある。自らの懐の中に「小判」を温めて、そして他人の力を「只」で借りる・・・volunteerとは、間逆な精神は、自らの中に貧困を生み、本当の貧困者への「手」を引かしめる・・・非人道的な思考であり、生き方になるのだと、私は思う。

過疎化の時代、片方で、農地の拡大を可能にする可能性もある・・・生産価格の安定化・・・片方で、高齢者の苦しみが増すことにもなる・・・懐を解放しない場合は・・・高齢者は、基本的には知恵者である・・・曽野綾子・・・そして、知識を豊富に持っている・・・要は、その使い方である。我利我利亡者、欲の塊であっては、高齢者の幸せはない。自らの一生は自らのものとして、その上に、子や孫の生涯までをも重ねないことであろう。

経済的に可能ならば、この高齢者の様に・・・「融雪装置」を考えるべきであろうし、不可能ならば、行政と共に、政治的な解決を考えるべきはないか・・・医療、買物、介護を備えた「集合住宅」化も、その検討に値すると私は思うのだが・・・お節介ではあるだろう。