2歳幼児の遺体を遺棄した、35歳母親・・・・考

母親35歳。遺体を遺棄された幼児(女子)は2歳・・・寒空の下、そのnewsを聴きながら、背筋に寒さを覚える・・・「凍りつく」と言うべきか。

アラン先生の口を借りれば、「母親は病」なのであろう。その病がさせた犯罪と見ることもできるが、その病を引き出しているのは「誰?」か・・・。先日、故あって「長谷川博一・著」の苛めに関する一冊を読んだ。著者は、「虐め」の世代間継承に、警鐘をならしているのだが、読んでいて、無力感を感じてしまう。それ程までに、「現代病」化していて、今回の「幼児遺体遺棄」も、その中で生じた哀しい事件だったのだろう。熊本には、「こうのとり」も待っているのにと、思わないでもないが、幼児が2歳と言うことでためらったのであろう・・・私は、推察する。そして、この2年間をどんな思いで育ててきたのか・・・

Newsに依れば、この幼児・・・歩行に多少の「難」があったと思われる。僅かな子育ての経験からすれば、親は、誕生の瞬間から、この子が、小学生になった時・・・と、思うものである。言葉が遅い、成長が遅い、況や、四肢に多少でも、健常者と言えない支障がある時、親は、何としても、普通の子供にしてあげたい・・・その責任が私にはある・・・と、思うものである。

該著の中にも、玩具を片付けない、親の言うことを聞かない・・・言う通りにしない、反抗する、反発する・・・など、子育てが終わった者からみれば、「そんなこと・・・を気にするのか?」と、思ってしまう些細なことが、折檻の原因であり、親の思う通りにならない成長が、親の心を病にしてしまう・・・「みんな違って、みんないい・・・」とはならない世情が、子育ての親達の頭上の暗雲になっているのであろう。そう、私は、日本の「教育」の姿勢が生みだしている「病理」であろうと、思う一人である。

特別な小学校、中学校を除けば、学校は「玉石混合」である。その玉石混合を、全部「玉」にしようとしているのが、現今日本の「教育姿勢」であり、conceptになっていないか・・・私は疑う。シーナ・アイエンガー教授の説の様に、誕生は「運命」である。しかし、その後は「遭遇」と選択である。しかし、誕生と共に、多少なりとも持っている「障害・・・と言えないにしても、親の心配の種になるものも含めて・・・」も、また運命と言うべきだろう。しかし、その運命を、学校と言う教育の場が、あたかも、その嬰児、幼児が、遭遇したものでもある様なものとして処していないか、そして、其処に「選択」ならぬ「差別」を持ちこんでいないか・・・。この著者にして、その記述の中に、私は、それを読みとれなかった。

私は、運動音痴の子供だった・・・引揚後の生活の中で、多少は改善されたのだが・・・小学校から高校を卒業するまで、「跳び箱」は、一段も飛べなかった。金棒は、尻上がりが全く出来なかった。体育の教師の苦虫を潰した様な表情は、いたく私の心を傷つけたが、特段に「差別」はされなかった・・・classmateは、体育の時間中、私の「奇蹟」に期待した。そして、遊び時間中にcoachを買って出るclassmateも多々あった。教科の成績は、それを補って充分だったのだが・・・。
だから、子供が幼稚園への入学が近づいた頃、庭に、簡易金棒のsetを置いて、子供に遊ばせた。近所の同じ年頃の子供も、毎日、その金棒で遊んでくれて、私の子も、自然に「尻上がり」が出来るようになった・・・私の心の中の「不安のhurdle」をclearした瞬間は、誠に嬉しかった。

その背後にあるものに、今、気がつく・・・つまり、学校における「差別」を怖れていたのであることを確信する。

この母親も、この「不安」に苛まされたのではないだろうか・・・いや、絶対にそうだ!・・・と、私は、声を荒げたい。「玉石混合」子供達を、玉石混合のままに送り出す勇気が、現在の日本にはない。何故なら、「違っていい・・・」思想が、この国にはないからである。「違ったら・・・」それは落ちこぼれ、不良品のレッテルを貼られることになり、生涯の傷になる・・・それを誇示して生きる位の強さを子供に与えるのは至難である。その至難に対抗する「力」の不足を親が自覚した時・・・それが、今回事件の背後にある、この国の「教育的・瑕疵」であると、私は思う。

機会があれば、該著を読んでみて・・・と、年賀状に記してくれたのは、一時、私の職場にあり、後に教師に転じた女性である。図書室では、特別な書棚から係員が出してくれた。読みながら、暗澹とした気分に終始した・・・返事には、「名にも学ぶものはなかった・・・」と、つれない返事を手紙にしたのだが・・・「選ばれし者」と「差別されし者」とのKWが、私の脳の中に生れた。

彼女は、また、該著書の著者も、そして、41年間大企業に勤めた私も、その組織の中の詳細な日々は兎も角、「選ばれし者」として、其処にあったのである。誕生と言う運命的な瞬間に、「被・差別」
に繋がるような、僅かであっても「障害」を有していたらしいこと・・・現今の「教育」の中に、それに対応出来る「力」があるのか・・・「教育」本来の目的は、この国の国籍を有して誕生してくる子供に、この国で生きるに値する教育を授ける責任がある・・・こと思う時、この母親に「罪」を問うことが出来るのか・・・と、考えてしまう、今朝なのである。

この母親、医師にも相談したであろう。夫とも話し合ったことであろう。あるいは、両親とも・・・しかし、「答え」を見つけることはできなかった・・・この国の「教育」はその答えをもっていないのだろうから・・・、医師の言葉が「何」であれ、彼女の心に、「どうのように・・・」聞こえたのか・・・あるは、その言葉が、切望的な響きで聞こえたのではないか・・・

明治・維新政府が、最も力を入れたのが、「国民」の創生だったのである・・・しかも、近代西欧に伍していくための・・・しかし、それは、富国強兵の段階で、今日まで止まったままなのではないか・・・この国の「教育的環境」は、まだ、維新当時のままであると言っても過言ではないのかもしれない。

最近の「若者」の動態が懸念されている・・・つまり、社会的弱者を「差別」との範疇において成長して来た・・・あるいは犠牲にして、健常者の傲慢だけを鼓舞して作り上げてきた、その結果が、現今の動態を生みだしているのではないか・・・市場には、障害者、弱者を利する商品で溢れている。しかし、それは、老いたる健常者の市場でもあるのだが、彼等を「差別」したままで、彼等の市場では効力を発揮しない・・・現今不況・・・物が売れない・・・の原因の一つであり、大きな影響を与えているのではないだろうか・・・。

全部を言いつくせないが・・・・「教育」が変われば、「人」が変わる。人が変われば、生産物がかわる。生産物が変われば、その技術が変わる・・・其処に、差別されずに生きるpowerが存在しているのだと思う。
漢字の暗記を競って、何ほどの価値がある。計算の速さを競って、何の価値がある。障害を持つ子を排除した運動会に何ほどの価値がある・・・運動会等やめて、J・leagueの観戦に一喜一憂するほうが、余程強い精神力を涵養するだろう。
「学力」も「運動」も、弱者を助け、共に、より良き社会への道を探り、共に歩く・・・そして、共に高齢者として、その「障害」を共に味あうまで、共白髪で、友として生涯を送る・・・そんな社会を発展させる仲間であるべきなのだ・・・。
子供を有名小学校、中学校に入学させ・・・その子に期待するものが何か・・・親の覚悟が問われるべきだろう。弱者に負けない為に、社会で覇者になるために・・・ならば、私は、その子の為の税金は収めたくない・・・・!