「平清盛」・題字に思う。

今朝の西日本新聞(朝刊)のコラム・「人」・・・・NHK大河ドラマ・「平清盛」は、ダウン症をお持ちの「書家」に依るものだとある。

普通学級に入学したものの、4年生の時に、半ば強制的(文面から感じる・・・)に、障害児学級の併設されている小学校への転校を余儀なくされた言う。そして、「書家」として、社会に認知されたの20歳だと言うから、私などの感覚では、「天才」である。

今、ワイドショーは、2歳児を遺棄した母親の話題で連日忙しい。変わり果てた、「白骨」が、どの様に発見されたか、あるいは、散乱している・・・報道する必要もないことを、大衆的視聴者の興味を、視聴率のUPに繋げようと、非人道的な報道に忙しい。「白骨化」だけで、この事件の悲惨さは余すところなく伝わるのではないか・・・その連想を、想像力がなくば、それは、非人間だと断じても余りあるだろう。

前のブログでも触れたが、私は、この子の「脚力」を母親は心配もし、子育ての悩みにもなっていたのだと想像する・・・余計なお節介は自認して・・・。
そこには、「英才教育」に名を借りた、教室の暴力があり、その中で、我が子を生き延びさせたい母心が、結果として「monster・mama」を生んでいるのだと、私は思う。つまり、monster mamaは、教室の教育姿勢が生みだした怪物なのである。
そして、社会現象・雰囲気に過剰に反応し、我が肌に感じる、現代の母親に「恐怖」を生みだしている。「みんなちがってみんないい・・・」こんな教師が多数であるなら、いや只の一人でもいたら、母親はどんなにか安心するだろう・・・英才教育は、家庭のコストで、家庭の選択で行えば良いのである。旨く成功すれば、それは、「黄金の鉱脈」になるのだから・・・。普通の子供、身体に僅かな障害を持つ子供を犠牲にして、国家の教育費で、そのコストを代替する必要などはない・・・と、私は断定したい。

この子が、小学生になったら・・・それは、差別・教育の被害者となり、社会人として出発するスタートラインでhandicapを負わなければならない・・・この子を生んだのは、私の責任だ・・・と、思った時に、悩みはますます深くなる。その子を送りだすのは、人間の世界ではなく、悪魔の住む社会でしかない・・・ならば、別の世界へ・・・と思うのもむベなるかな・・・選ばれた人たる教師には、その気持ちが理解できない・・・日本の教師は、その様に造られているし、mass communicationもmediaも、教師の、その様な知性と理性を求めている・・・期待する結果は、計算が早くできて、外国語が堪能になり、漢字を沢山している(馬鹿芸人並みの)子供達だけが、教育の対象になっているのだろう。そして、親が、其処に遅れた子供を励まし、切磋すれば、それは、教師の目に虐めに映る・・・そして、教師の目は差別的になり、ますます、子供達が暴力的になり、母親はmonster mamaに成って行く・・・これを虐めの連鎖というのだそうだが、その連鎖を造り出し、促進しているのが、今回事件の光背の景色なのだと私は思う。

少なくとも、公的な教育機関で「英才」を育てる、それを学校間で競う・・・スポーツが、学校のPR,CM化していることを嘆く声がないでもない。「英才」を育てる為に邪魔になる「障害児」を追放する・・・これ程、非人間的なことはないのだが、mediaは、その事には無関心。そして、その悩みを潜めていたかもしれない母親の犯罪には厳しい。Media、mass communicationに、この女性を、石を以って打つ資格があるのか、私達ににも・・・。
身体の不自由な子供がクラスの中にいて、安心・安全な社会への道が広くなり、身体が、不自由になった高齢者も安心して、更に歳を重ね、安穏の中に旅立つことが可能な社会になるのではないか・・・。「命を大事に・・・」との言葉の裏の、差別意識・・・今日の、私の自戒としたい。