引き受けて考える・・・・

宮台真司のコラムのKWである。彼は言う・・・・
この国は、「任せて文句を言う社会」であって、「引き受けて考える社会」ではないと。「空気」に縛られていのが、政治家、官僚、科学者、学者・・・そして大衆。少しばかり、「考え」を述べれば、非常識と罵られ、異端者として排除され、あげくは「無視」される。地域の中に自治会はあっても、そこに、卓越した意見を語ることは禁忌である。百年一日の如きthesisを謳い、意味のない賛同を求め、お義理の拍手で、議事が進み、承認される。そもそもが内容のない決議であるから、成果がなくとも、誰からも批判されない・・・全員が批判にさらされると言う条件だから、お互いに墓穴から、顔だけを出して、周囲を伺い・・・可もなし、不可もなしの発言で終る。

江戸の武家が、政治の中心であり、波はあっても、概ね、将軍とそれを支える政治機構が、この国を支えて来た。黒船来航が、その限界を知らしめた時から、草莽の志士たちの目が覚め恥じたのだが、政治勢力とはならなかった・・・何故なら、幕藩体制に支えられた草莽の志士だったからである。しかるに、相良総造にしても、坂本龍馬にしても、西郷隆盛によって、都合良く使い捨てにされたのである。つまり、草莽の志士をささえる、江戸市民、あるいは各藩の百姓・町人に支えられた草莽の士ではなかった・・・この状況は今日にも繋がっているのではないか・・・私は、民主主義の未熟さを思う・・・と、同時に、未だ維新後の百年を半ばが過ぎただけであることを思う。

産業革命が世界を巡り、植民地争奪が一息ついている好きに目覚めた・・・維新・・・日本である。強引な徴兵制によって、世界の仲間入りをし、軍備は、先進国頼りで整えることが出来た・・・そして、その負担に耐える百姓・町人の存在があった・・・幸いにも、「自ら考える」百姓・町人でなかったことが、幸いしたのである。
徳川幕府が推進していた、「自作農」化の推進を「小作化」することで、その後の財政の基盤を作ったのも、江戸時代よりも激しかったと言われる「百姓一揆」を強権で抑え込む、薩摩・長州の武権的な藩が警察・軍備の権力を掌握していて可能だった。つまり、「考える農民、町民、庶民」の誕生の可能性はなかったことになる。僅かな萌芽は、明治44年大逆事件をでっちあげて封じてしまった。ここにも、考えない国民の脳を麻痺させる政治・教育が効果を発揮したのである。

我々は、押しつけられて我慢するethosを大事に我が懐に収めて、日清戦争を闘い、日露戦争で勝利したと思い、世界の強国となったと勘違いして、世界と闘った・・・信頼もしてくれない同盟国・ドイツと共に・・・。

夏目漱石が言うが如く・・・人間の世界は、人間の手で造り、運営して行く人間の生き方で変わるものである・・・しかも、現在生きている人間が目にし、肌で感じるものは、今は存在しない人間が使い古した、あるいは、馴れ親しんだ“もの”なのである。金科玉条のものでもないし、これを改めて良い結果が得られる保証がされるものでもない。況や、未来を構築することなどは、どだい無理な話・・・・このままが延長されれば、弊害が倍加するだろう・・・ならばと、ない知恵を絞りだす程度のものであり、その知恵が、次の問題・障害を惹起する・・・それが理解出来るようになれば、それが「大人」というものだろう。「引き受けて考える」己の姿を少しは垣間見ることになるのだから・・・。

農地解放で、傲慢になり都市の住民を見下して有頂天になった戦後の百姓、そして、土地バブルで、世界の各地に「農協」の旗を翻らせた日本の百姓・・・・太平洋戦争直前の軍部と同じ轍を踏んでいたことが、今、理解出来る。
当時、薔薇色の未来を描いていた・・・この世の春が永遠に続くと思っていた・・・百姓を襲ったのも、土地成金になったのも、手に泥を握らない百姓の、百姓的政治家に任せる結果が見えなかった故である。父が、百姓家の庭先で土下座して食べ物を乞うた姿が、同じ日本だったとは思えないのだが・・・結局、その百姓が支えて来た「日本の政治」が、その農業を破壊しかねない今日の現実がある。

「日本のコメが滅びる」・・・・かつての父の姿が目の底にある私には、滅びてもいいじゃないか・・・世界を平和に維持する力があるなら・・・・PAX Japanの時代を気付けるなら、日本で「米」を造る必要はないだろうと・・・・考える。
考える・・・・その資源は、過去の記憶であり、過去の分析で在り、現在を考えることであり、次の一歩を選択することである。私の「考える資源の一つ」に、父の姿が残る限り、私には、日本のコメは必要ない・・・寧ろ、田圃を全部潰して「soccer stadium」を造り、季節と緑の豊かなこの列島で、世界中のathleteがsoccerを楽しむ、明日のsoccerを発展させる基地にした方が良いだろう・・・とすら考える。

demagogに迷わされずに「考える」・・・日本を、我が身に引き受ける。自分で考える。過去の繰り言ではなく、空気に縛られることなく発言する、表現する・・・いま「e-reader」が、若者を古典の世界にいざなっているそうである・・・ヨーロッパ、アメリカでは・・・何故なら、古典のinstallは殆どが無料だからだとか・・・・読むことの好きな人は、「現在」への拘りが少ないからだろう。私が、「文庫化」を待って、新刊書を横目でみている心境だろうか。現に、初版から文庫本で出版する「時代劇作家」の小説がバカ売れだとか・・・嬉しい限りである。恐らく目が衰えたら文庫本は苦しいだろう。その時に、e-readerに乗り換えれば良いか・・・いまは、そんな心境。
考える私の為に・・・ブログも真面目に書こう・・・今朝は、そんな話!