野党のmanifestとは?

今朝の「時事放談(藤井、武村)」で、「野党のmanifest」なるKWが討論されていた。と、言って、意見が対立していたのではない。
藤井・・・「野党のmanifestは、理念であれ!」とは、イギリスのチャーチルの言葉であり、議会政治の鉄則であると。民主党が、先の選挙のmanifestを作成するときも、藤井氏は、強く主張したのだが、数字のないmanifestに意味はない・・・との、若手の主張に抗することができずに、妥協してしまったのだと・・・その苦汁を語っていた。
武村氏は、終始、このmanifestが誕生以来、その疑問を語り続けている。

選挙に勝利し、政権を奪取することに、非常に大きな武器ではあったが、選挙の武器ではあっても、政権の武器とはならなかった・・・その実態が、昨今の状況である。理由は、政権党としての自民党、そして野党としての民主党の両方を知る藤井氏は、「与党は、色々な数値を知っているが、知ることが出来るが、野党には教えない・・・、それが与野党の立場の違い・・・」と、語る。それを、野党の立場の民主党の若手議員に教えても納得しない・・・「数値のないmanifestでは、選挙を戦えない・・・」と主張。藤井氏も折れたらしい。
知らないことを、知らないと言う必要はないだろう。しかし、其処に、数値をでっち上げる、憶測の数値で、政策を作り上げる・・・そうなれば、それは、政治的詐欺である。蓮舫議員の派手なperformanceも、一つの「詐欺劇場」だったことになる。結局、この国の政治を混乱させ、欲悪くも、続いて来た「保守政治」に大きな瑕疵を生んだということでしかない。

また、吾々国民も無知だった・・・野党のmanifestが、各の如き・・・決して粗末ということではなしに・・・性格であり、その品質の評価は、与党の公約、あるいはmanifestとは、その性格を異にするのだと・・・と言う事への国民の無知が、今日状況を惹起していると言うことであろう。
「鳩山茶番」の劇場政治も、大根役者のどたばただったのである。

すぃかし、皮肉に言えば、「知らないことを、さも「真」であるがに語った、その厚顔無恥は、今後の、民主党の評価に心しておかねばなるまい・・・と、思う。

開国して、まだ100年余り・・・この国の議会制民主主義の未熟、国民の意識の低さ・・・個々人の自戒に待つしかないのだろう。傲慢不遜・・・政権を取った民主党の最大の瑕疵であったし、また、それを、今日においても反省しない「国民」の悪しきethosでもあるのだろう。

奴隷制下の議会制民主主義・・・古代ギリシャ・・・を、近代的な議会制民主主義の実現を、血を贖って今日至る西欧・・・イギリス、フランス、ドイツ等々・・・と、維新におても、戦後においても、深く傷つくことなく手に入れた我が国との違いを、今一度自覚すべきではないだろうか・・・我々は、まだ「後進国」なのだと・・・。

「武士道」と言う言葉はあっても、武士の姿の消滅と時を同じくして消えた「凛とした姿勢」の結果が、あるいは、今日の政治の低落なのだと、「私」の政治感覚の醸成に努めることの必要性を私は思う。つまり、貴族なき社会の悲惨さの一つなのであろう。つまり、「嘘」の付ける社会の安穏さであり、「茹で蛙」的、政治風土の哀しさではあるだろう。