考・脱原発・・・萱野・津田塾大准教授のコラムを読む!

西日本新聞の、一面コラム・・・「考・原発・・・私の視点」・・・16日は、萱野准教授・・・今回シリーズの10回目だが、初めて、納得のいく「論」を読ませてもらった。この新聞、かつては硬派の論説を書く記者の存在で有名だったと聞く。私が購読を始めた頃にはまだ健在だったが、長文の論説を読ませていただく機会はなかったと・・・記憶するのだが、時々、紙面に談話で登場していたと・・・まだ、社会人としては幼かった私の「愚眼」が見のがしていたのかも知れない。
最近は、殆ど、政治や、大衆化した読者への「鉄槌」の様な、論説・社説を読ませて貰うことは少ない。また、社説に反論する投稿が、その投稿欄に採用されることもない・・・社説への批判も多い筈だが、とんとお目に掛からない・・・これこそが、世論調査を超える「民の声」のはずなのだが・・・名文を書く読者は多いと思うのだが、貴重な投稿が「没」になっているのかと思うと、慙愧に堪え得ない。横道に逸れた・・・・

准教授の曰く・・・その一・・・「脱原発さえ決めれば事故の恐怖から免れるという考えは短絡的。核廃棄物を管理していくためにも、原子力工学を維持、発展させる技術者をどう育てるか考えなければならない・・・」と。新しい技術は、そのスタートに「安全」を保障するものは皆無である。人間が手なずけて安全なものに成長させ得るものもある・・・危険を承知で、利用を続けるものもある。なにも、しなければ、我々は今日でも裸で、あるいは20歳前後の寿命で世を去るはずである。
蒸気の威力は、紀元前数世紀頃には、人類の知恵として存在していたと、その科学誌は語る。見世物としての人気は高かったのだとも・・・それが、蒸気エンジンとして誕生し、蒸気機関車になり、ポンプになったのは、17,8世紀の頃だろう。内燃機関とて、同じ様なものだろう。我が国が知ったのは、もう20世紀になる頃だった・・・。原子爆弾で、初めて「核」のenergyを知った事と、それ程の違いはない。我々は、ともすると、原始時代に逆戻りしかねないethosを持っているのかも知れないと、我が身を案じて見る必要があるのではないか・・・・福島原発から東京までと、ほぼ同距離の岩手の震災瓦礫の処分を、島田市(だったと思うが・・・)の住民が拒否・・・「絆」などと言う漢字に酔いしれた住民の姿が、みっともない・・・。
准教授の曰く・・・その二・・・化石燃料は植物が光合成したもの。数億年懸けて濃縮した太陽エネルギーだが、stockのflowを使っているだけで、energyの密度が違う。人間が、自ら発見し、controlして利用する「核energy」とは、根本的に、その構造が違うと論じておられるのだろう。石炭、石油、あるいは天然ガス・・・・そこに在るものを利用しているだけで、人類の知恵は、energyを作りだす為には使われていない。つまりは、路傍に、拾ったものを、我がものとしているだけ・・・「野生」の域を、それほど脱したものではない・・・私は、そう読んだ。

准教授の曰く・・・その三・・・国際energy機関の予想では、石油生産量は2025年には半減する・・・恐らく、数年は備蓄で凌ぐのだろう。その後は、energy争奪の、熾烈な戦い・・・つまりは世界戦争・・・で、強い国が、energyの独占をし、世界を牛耳るのであろう。その時、いかに日本が軍事強国になっていたとしても、石油を得る手段はない。例え油田を押さえても、運ぶ手段はない。現在においても、ホルムズ海峡を押さえられるだけで、日本の石油輸入は、全面的に不可能になるのである。
この国の、市民活動家は、「数学」に弱い。数学的な議論は殆ど不可能。また、可なりな数学的知識人も、数学で説得するよりも、感情的に説明をするので迫力がない。先日の、島田市のおばさんと細野大臣のやり取りをTVに見ていても、「馬鹿は云々」のざれ歌を思い出してしまう。そして、「相手説明・・・多分に数学的な・・・を、分からない・・」の一言で避けてしまう。「分からない・・・」が、「力」なのである。そして、これが、我国の市民活動の弱点でもあり・・・映画、「ペリカン文章」の様なsceneは期待できないのである。
恐らく、太平洋戦争も、戦争に危機を感じながら「力不足」に終始し、大衆の声に消されて、役割を果たせなかった「愚」を繰り返しているのではないか・・・「数学的」資質が豊かになれば、また違った市民活動が可能になると思うのだが・・・知識や思考を背後に隠して、その力を、訳の分からない「言い草」の中に声高に語る悪癖が邪魔をしているのであろう。

准教授の曰く・・・その四・・・自然災害にも、経済危機にも強い耐性を持つ社会をいかに作るか、地域独占の電力供給の垂直統合型から、自然energyを活用した水平分散型に向かうだろう。ただ、自然energyは補完的にとどまるので、新しい価値観、life styleを追究する手段と位置付けた方がいい・・・魔法はない、手探りで生き抜くしかない。たこつぼ化した専門領域を取り払い、知を結集して乗り切るべきである・・・・つまり、知識・教養の水平化が求められているのである。勿論、完全な水平化は、全員が馬鹿になることである。切磋琢磨・・・とは、お互いが、お互いの刺激を授受しながら成長することである。「知を結集する・・・」とは、お互いの対話、会話が、普遍的な言語で語られることを条件とする。その「言語」とは、「数学」なのである。「分からない・・・」が、まかり通らない世界・・・とでも言えるだろう。新しい価値観が、数学的言語を使って、語られる・・・覚悟すべき危険の共有も、可能になるだろう。「たこつぼ」とは、眠ったままで無抵抗な「愚」を釣り上げる道具である。一人が、たこつぼに入ることは、それを容易に釣り上げる者をして、こちらをも、「愚」にする危険が大きい・・・つまり、一人の「愚」が、全体に蔓延する恐怖である。

准教授の曰く・・・その五・・・成功体験に縛られた年超世代は明るい未来を探してしまう。一方で若い世代は、ばら色の未来はなくてもそこそこ楽しく生きる作法を身につけている・・・「いつかはクラウン」はなくなったが、自転車で街を回っても楽しい。そういう価値観を年長者が見習ってもいいかなと思う・・・・けだし名言・・・「そこそこに生きる作法」とは、酔生夢死のことである。そのまま死ねば苦労を知らずに済む、しないで済む・・・しかし、死の直前に気がつくと悲劇である。眼の前に突っ込んで来たトラックにはねられて、即死にもならず、苦しんだあげくにあの世に行くに等しい。その意味で、年長者の苦しみは、この先、どれほどの事もない。しかし、徹底的に「酔生夢死」で生き、考えるDNAすら放擲できれば、准教授の言葉に耳を傾ける必要もない・・・こんな御仁には、間違っても「無責任な一票」を投じる為に、投票所に行って貰いたくない・・・家で、相撲か、野球か、はたま、馬鹿タレントの馬鹿騒ぎでも楽しんでいて貰いたい。浅はかな市民活動の扇動に乗って、いっちょまえの「市民面」をして貰いたくない・・・市民運動の為にも、百害あって一利なしの行動だろう。

被災ぶりに嬉しいコラムを読ませていただいた・・・少々興奮気味に書いた一文である。顰蹙を買う文調もあるだろう・・・批判は批判として、愚かなる市民活動家から脱皮したものであれば大歓迎・・・私の栄養とさせて頂く・・・・。