新一年生の笑顔とランドセルと・・・・

ランドセルと、新一年生になる日を待ちわびる子供の笑顔が、毎日TVに登場する。春の近いことを告げる「花」の便りも嬉しいが、ランドセルと子供の笑顔には、「勇気」を貰える嬉しさがある。子供達が、学校に行く日を楽しみにしている・・・彼等は、己の成長を自らの中に確信しているのだと・・・学べる事、未知の大勢の“子供”達と出会えること、其処に出現する、未経験の世界に、胸を躍らせているのであろう。私も、西湖津小学校の門を潜った時の写真・・・内地に送っておいたものを、引揚後に頂いたもの・・・に、あたかも自分の記憶であるがに眺めることがある。モノクロ写真だが、紺色の、半ズボン姿・・・制服だったのだろうか・・・に、名前を記した「白いハンカチ」を胸にした勇士である。しかし、実体は虚弱児だった。
3年と一学期・・・共に学んだ学友たち・・・1クラス・・・、その名前は、「山田君」を除いては、一人も思い出せない。喜び勇んで潜った日の興奮が、あるいは、記憶力を喪失させるのだろうか・・・。

しかし、その学校で悲劇が生れる。虐めがあり、自殺があり、登校拒否があり、引きこもりがあり、時に、教師による。セクハラがある。そして、monster mamaによる、教員の自殺があり、鬱が生れる。この歳になって考える「学校」とは、非劇の生き地獄の姿に見えることすらある。何故なのか・・・・江戸時代の寺子屋では、子供達の悲劇は殆ど見られなかったと語る歴史家は多い。幕末・維新は、寺子屋や、塾、個人的子弟関係の「教育」の成果として実現したものであり、近代日本の誕生でもあった・・・とも。本来、師と弟子の合意と親近感、そして尊敬が、「教育」の条件であうことを、改めて確認したい。
そして、近代日本が、「国民」を創生しなければならなかったことに、早急な学校制度の実現があり、荒廃の戦後においても、地域が多大な経済的負担に耐えつつ学校建設、教育環境の整備に努めたことを評価する歴史家も多い・・・しかし、それは反面で「奴隷」を生みかねないものでもあったのではないか・・・それを指摘することは憚られるのだろうか、論じる論者を私は知らない。つまり、維新、戦後の復興が、その教育の成果として誇られる、我国の特徴なのかも知れない。アメリカの西部劇等に見られる、日本で言う「文部省」不在の教育行政、そして、夫々の地域・・・特に、西部において・・・で、住民の意思で、住民の負担で、学校が建設され・運営され・・・教師を、全地球から探す努力は、我々の祖先とは「無縁」のものだった。つまり、教育を「お上」任せにしてきた反省すらもないのが、現実なのである。
その事を忘れて、先進文明に、「追いつけ、追い越せ」と一途に頑張ってきたが、豊かになり、貧しさに覚える様になった現在・・・「豊かさ」、「貧しさ」の意味すら考えようとはせずに、「枯れ尾花」に怯える様に、子供達の尻を叩く大人達が、子供の教育に危機を感じる様になってきた・・・算数、国語・・・の成績を世界平均と比べて「一喜一憂」するみっともない姿である。

昨今TVが面白い。もう一度、或いは折を見て再視聴しようと期待させる番組は「DVD」に録画する。そんなDVDが200枚にもなるだろうか。一枚のDVDに数本の番組が収まっているので、あるいは、番組数では、数千になっているのかも知れない・・・家族は、「馬鹿げた事」と、視線は冷たいが・・・後悔先に立たずの体験が、そうさせるのである。
それでも時々、古いDVD・・・machineに可能なものを・・・を再干渉する。そして、思う、学校で何故あんなにも沢山の教科を教えなければならないのか・・・と。「読み書き、そろばん」つまり、「国語、算数(数学)」だけを親切丁寧に教えれば良いのではないか・・・出来の良い子で、時間に余裕がでれば、自分の好きな読書で更に知見を広め、感情を育てることができるのではないか。暗記もののテストにどれ程の意味があるのか・・・と、考え込むことがある。

理解の早い子、遅い子。また、理解の方向は、子供に依って異なるはずである。己の特徴を己自信で自覚できれば、夫々に、夫々の人生が送れるはずである。「それぞれ違って、それで良い」のである。
成績は、その子の人生であり、百点か、零点か、あるいは、まぁまぁか・・・その子の選択の力もまた、個々人の個性である。他を認め、自らを認め・・・お互いを補い、お互いを助け、助けられ・・・それが、「絆」と言うものであろう。今年の漢字は「絆」だった。己無くして絆は不可能である。

教室で、教えるものは、「国語」と「算数(数学)」だけにすれば、一日の授業も、半日で十分だろう・・・その応用は、大人との共存である。そこではなによりも「対話」の力を養える・・・英語も、フランス語も、ドイツ語も、其処に発すれば、上達も早いだろう・・・・喋る度胸も得られるだろう。なによりも、大人が大人として成長する縁になるのではないか・・・私の事として思う。教科書を子供達に教える能力しかない教師に、子供達を大人に変身させる力はないのかもしれない。家で、TV番組から学ぶことに、その可能性を私は賭けたいと思う。

ゆとり教育」が、大きな批判を浴びて、粛清された・・・私は、この粛清を大きな失敗と考えている。つまり、教師の反省がなかった。だから、親達も危険を感じた。そして、自らを変身させる可能性を探る勇気を持ちえなかった。つまり、従来型の、能力不足の教師達を頼りにする教育に逆戻りさせたのである。能力なき教師達に、高き理念を掲げた「ゆとり教育」を任せたことに、失敗の原因があったのである。「ゆとり教育の消滅」を、教職員の勝利と捉える、この浅はかさこそが、現代日本の「教育の危機」なのである。

大正democracy教師が、軍国教師に変身して、太平洋戦争の敗北を喫したように、いま、大人になって、全く無用の長物としか感じられない様な教育に、energyとcostがますます大きな負担を求められようとしている。少なくとも、初等教育には、costは小さくてもよい、しかし、human・energyが求められているのではないか・・・・学ぼうとする子供に、無駄な負荷を掛けてはならない・・・私の主張である。新しいランドセルを手にした子供の笑顔を大事にしてあげたい・・・卒業まで持続させてやって欲しい。

教室で教える教科は、「国語」と「算数」だけ・・・後は、子供の自発的学習・学び・・・そして、それに適切な助言が出来、その力を伸ばす環境を整える大人の努力・・・大人自身にも、視聴するTV番組の選択能力が求められている・・・馬鹿な大人が、優秀な子供を育てられる筈がない・・・遅ればせながら、引かれ者の小唄とも言える、私の反省である。

新しいランドセルを手にする子供達は、例外なく「笑顔」である。この「笑顔」を消さない学校、教師の資質・・・今一度、教師自身が胸に問うべきだろう・・・この笑顔を幾つ葬ったか・・・謙虚に反省すべきであろう。