少年法・・・・の事など・・・・


光市・母子殺人事件・・・これが、特異な犯罪としてnewsになるのは、その殺害の残酷さ、そして殺人犯の悪逆さ、残忍さにあるのだと、私は思う。つまり、他人の家に押し入り、出会いがしらになった家人を殺害したり、争った結果としての殺人とは、全く異なる性格の犯罪である。そして、「死刑」が妥当か、否か・・・とは別の問題であって、そのこに、「死刑」と言うルールがあり、慨念的に、「死刑」の適用が妥当であると・・・その判断を撒かされた人々・・・法学者・・・によって下されたものに過ぎない・・・・義務教育を修了した日本国民の、当然の「知識」であり、「理念」であり、物事に関わる時に持つべき「矜持」でもなければならないものである。もし、その事が、この被告に関して「無知」であったなら、彼を教育した教師にも、一旦の責任を負わせるべきなのかもしれない・・・無条件に、「義務教育終了」の認可を与えた行為が、「殺人教唆」と藩出され得ることにもなるのではないか・・・athleteの好成績、世界的記録を収めた時には、彼を育てた恩師、coachなどが、news等に顔を出して、嬉しそうに語る・・・かくの如き、凶悪な犯罪人の教育に携わった教師や、関係者も、TVの前で、その心境を語るなり、手抜きのあったことを謝罪すべきではないか・・・「更生」の機会を与える・・・しかし、それは、その「種」が存在していて可能な事であろう。収監された当時の、友人に当てた「手紙」・・・余すところなく、この少年の受けた教育の手抜きを感じさせるものである。そして、「無期懲役」に実体を知っていて犯罪の動機としていることの伺えるものである。
まず私は、「少年法」を、義務教育終了年齢・・・16歳未満・・・とすべきと主張しておきたい。そして、「死刑」判決を、例外なく避け得る条件として、彼を育てた教育機関および、該当行政の教育委員会の失態をも追究するべく、「法」整備を行うべきである・・・と、提案しておきたい。
「“死刑”が、公的な“復讐”であってはならない。あくまでも、当該社会のruleとして、厳守すべきものであり・・・・」と、曽野綾子は、そのessayに述べて、「被害者が癒されるとしたら、加害者を「許す」行為を以って他にはない・・・」と記述し、夫(父親)を無残に殺された「母子」の事例を挙げている・・・・加害者の死刑に立ち会った後、母が娘を諭す。「犯人を恨み続けてはいけませんよ!・・・私達の責務(行うべきは)は、彼の許しを「神」に祈り続けることなのですから・・・」と。被害者・本村さんの発言も、法の不備、あるいはmediaの在り方、そして、弁護士の弁護mannerと、法的な被害者救済を訴えている発言であって、加害者への恨みのtoneは、私には聞こえない。仏教の様に、「全ては無」として諦念を促すものでもない・・・彼は、クリスチャンかな・・・私の勝手な、かつ僭越な憶測である。

仏教徒・・・この国の宗教は、常に「武力」を以って、その支配の体制と闘って来た歴史はあっても、「祈る=許す」と言うfaceでは、その印象は薄い。寧ろ、儒教の「恕」の方に、その意識は傾く・・・しかし、「恕」は、神、仏からは遠い・・・あくまでも「人間的」である。
この事件の取材が、ともすると「安き」に流れる、scandalousなものに流れる・・・「死刑」が、賭けの対象にすらなりかねない風潮がある。

もう、本村さんをTV・cameraの前に立たせる、引き出す「愚」は、mediaにも、止めて欲しいと願う一人である。馬鹿タレントと同列に扱うことはやめて欲しい。私の為に言っているのである。その様なnewsに僅かでも自分の気持ちが動揺すれば、その分だけ、己を卑しくする・・・そんなことを思う。
「忘れてはならない、しかし、恨みは早く捨てなさい・・・」。私はチャーチルの言葉として聞いたが、この際に、この箴言を確認しておきたい。