三人の餓死・・・さいたま市

何故こんなことが起るのだろう。“いい年・・・”以上の大人が三人、しかも、殆ど枕を並べての死であり、自殺を図ったとも見えない・・・今後の調査で、別の疑いが生じることは考えられなくもないが・・・どうも「水」だけを呑んで飢えを凌いでいたのではないかと、reporterは推測していた・・・現場的には、それしか考えられない。
しかし、山中の一軒家ではない。都会とは言えないまでも、多くの家が存在する地域のapartment houseである。冷蔵庫も空、財布にも十数円のお金しか残っていなかったと言う。「生活保護」も支給されていなかった・・・申請されていない・・・と言うから、誇り高き「餓死」と言えなくもない。
昨年暮れの「漢字」の話題の中では、「絆」が騒がれた。震災地東北に、多くの日本人の暖かい支援が寄せられた・・・と、言うが、瓦礫処理では、多くの地域が「拒否」・・・何とも寒々しい日本の姿が浮き彫りになっている。拒否の理由は「放射線」だが、医学的な量からの推測ではあったも、現段階で絶対安全と言う量を認定する事は叶わないまでも、科学的な経験則から定めたものであり、日常的に接触する所に廃棄されるものでもない。宇宙に長期に滞在した科学者の数百分の一だとも言う。つまり、「原発反対」のcampaign・・・つまり、自分達・・・市民活動家・・・の道具として利用しようというものであろうと、私は理解しているのだが、被災地の苦労を多少でも軽減して上げようと言う気持ちは微塵もない・・・私は判断する。

そんな「絆」の世間である。この様な「餓死」もまた、むべなるかな・・・しかし、哀しい。恐らく、行政への批判、民生委員への批判が集まっているのだろうと忖度する・・・今はまだ、事情が明確ではないのでmediaも沈黙だし、色々な犯罪のnewsに忙しいから静かなのだろう。

国民総背番号で、個々人の収入と納税が補足されれば、この三人が無収入で何日過したのかも、或いは推測出来て、死に至る前に打つ手段もあるのかもしれない。しかし、左翼的思考からは、許されないことなのだろうし、今、総背番号に反対している思想も、それに近い。つまり、「命」よりも、privacyの方が重要なのである。そして、「死」の責任は、行政の責任・・・自らが野党的立場だから、気楽なものである。行政に、民生委員に、privacyに踏み込む特権が与えられていれば、防げる事故であろう・・・と、誰でも考えるのだろうが、これが、思想的組織が、その背後で「人命よりも重たい思想」を振りまわせば、結局、人間を殺すしてしまう・・・その結果の見えない、思想・金科玉条の精神が犯す殺人でもある。
更に・・・・・
この様な状態で「死」を、孤独に・・・一人ではなくても・・・迎えた人に共通しているのは、「電気」、「ガス」を止められていることである。「止める」時に、一言、行政なり、民生委員なりに、その後の観察を依頼するとか、あるいは、何故、滞納するのか、収入の道が断たれているのか、パチンコ等で浪費しているのか・・・等などの「生活」を把握した上で、処理を決めるべきではないのか・・・如何に民営とは言え、「人命」を無視した処置は、厳に戒めるべきであろう。余りにも杓子定規・・・人の命を奪うprivacyにどれ程の価値があるのか・・・訳の分からない論理を振りまわして行政を妨害する市民活動家、または、左翼的unionと、果敢に闘う行政であって欲しい、そして、私達も、そんな行政の背中を押すべきだろう。詰まり、無知蒙昧の大衆的市民から、観察・分析・思考の可能な庶民としての市民への脱皮が求められているのである。
無知蒙昧の大衆的的市民は、野獣としての存在であり、庶民は的市民は、文字通り、光輝く個人である。あまねく四方を照らす「庶民」・・・その脱皮の条件は、まず「隣人への心遣い」であろう。時に、隣人の挙措に発する音に耳を澄ます優しさが欲しい・・・そして、己の挙措の発する音への隣人の反応にも鷹揚であり、寛容である己になるべく精進を心がけたいものである。