孤立死と個人情報保護法

生活保護法というsafety・netがあるのに、何ら為すことなく、「孤立死」で、己が人生を終わらせる。また、脳梗塞で倒れた(死)母親の傍で、いたいけな幼児が餓死する・・・これが、文明国と言えるのか・・・。我々は、生きているのか、生き残っているのか・・・弱肉強食のjungleの如き、この国の街中で・・・。

また、「個人情報保護法」は、「孤立死」、「孤独死」を合法化するために制定された「法」なのか・・・今一度、立法の精神と、その立法のconceptを洗い直す必世があるのではないか。
光通信の勧誘、先物買いの勧誘、金融商品の勧誘、また、宗教への勧誘・・・相変わらず多い。日中は一人で留守番をしていることが多い私は、時に、電話機のjackを抜いて、電話機を不能にして静かな一日を過すことが多い。勿論、ケイタイは持っているが、受信可能に登録している個人からしか受信しないことにしている。また、mailも、「safe・list」を受信しているので、junk・mailとも無縁である。
かくの如き「底抜け」の個人情報保護法が、孤立死を招く時にのみ有効に働く・・・いや、有効に働かせるべき、行政職員の「冷たいコメント」が、TVに冴える。つまり、一つの命を救うことよりも、己が職責を全うするのだろう・・・しかし、職責を全うするとは、どういうことなのか・・・そこに思考が働くことはない、孤立死の恐れのない人間の傲慢だけが存在するだけである。

私とて、妻に先立たれ・・・身体の自由を奪われたり、高齢に伴う、身体の不自由、行動の自由が顕著になったときは、それなりの対策を自分で講じなければならないことは言うまでもない。ある街で実施している「健在」証明の「輪」を玄関に掛ける・・・夜は取り込む・・・当面は、こうしてご近所のお世話になることも必要だろう。その時、外出の必要性が出た時は、行き先、交通機関、帰宅の日時、あるいは要件の内容等・・・個人情報も明らかにするのが礼儀というものだろう。あるいは、町内会費、隣組会費を、少し増額していおただいて、日頃の恩に報いる位の心掛けも必要だろう。私の、そうなった時の覚悟である。曽野綾子の言う、「お金を使え!」の忠告に従うものである。
「絆」とは、己の自由を奪うものであり、制限するものである。地域とは、その地域に住む「吾」を、他人から差別し、己が、その格差を認めることによって、その地域で、己が人格も保持を可能にするものである。時に、無制限な「平等」を要求し、無制限な「無差別」を要求する。「個人情報保護法」が有効に働かず、人命をして失わせるのは、この「無制限な平等」と、無制限な無格差」にあるのである。
働くに必要な体力、身体の自由を失えば、それだけで、他人との格差は生じている、それを認めて、「助成」を求めるべきであり、それが、現・法制度の下で可能であることを知るのも、大人としての、社会人としての条件であろう。それを「諭す」のも、行政にあって、「法」を知り尽くした担当者の大きな責務でなくてなんであろう。

地域のcommunityの云々・・・communityの一員として生きる事は、その中で、己を見せなくて叶うことではない。それを常時確認し合うのが、communityの対話、talkingというものだろう。
遠くの親族よりも近くの隣人・・・個々人の移動が激しいのが、この列島に住む我々のethosである。祖父母、両親・・・そして私・・・生れた場所で、街で、その生涯を終わることはなかった、そして、終わる見込みはない。私達は、親族に囲まれて生きることが希望ではあっても、容易には不可能なのである。
3・11の被害者が・・・事ある毎に口にする・「生れ故郷、育った故郷・・・」も、多くの人々が、「何故、そんなに拘るのか・・・」内心で呟いている。その呟きは、移動を苦にしない国民性に由来するのである。列島の南(沖縄・九州)から、あるいは瀬戸内海(奈良、近江、京都)から、北上したらしい、文明、文化、そして培われた民族性(あるいは国民性)でもある。そして、其処此処で、隣人を作り、communityを形成して繁栄を齎せてきたのである。大家族制度も、その一つのpowerとして必要だったろうし、人口希薄な状況の中では、大家族同志の連結が、個々の大家族のpowerを有効ならしめたのだと、私は考える。

しかし、文明の発展の中で、制度・systemの発展の中で、「個」で生きることが可能になり、その可能性が、拡大して来た、その結果が近代である。しかし、大家族制度のethosを何処かに残したままの、「個」への拘り・・・それが、此処にきて、「絆」の必要性を言い出す・考えるようになってきた。
高島平のapartment house群が、当時の、大家族制度からの脱出を若い人に可能にし、「老・世代」を置き去りにした・・・しかし、その時代の「老」には、まだpowerがあった。そのpowerの喪失が、「介護保険」を誕生させ、新しい時代の家族観に影響を与え始めているのだが、その中に、弱者としての家族が取り残されようとしている。
かつての大家族制度の「安全性」は失われ、高島平世代の若い時代の生き方が、高齢になった時に可能か、否か・・・検証されないままに、若い世代の傲慢が蔓延し、その若い世代に捨てられた・・・離反された高齢世代が・・・若い世代の傲慢に起因する困窮に目をそむけだしている・・・色々な連立方程式が、答えを出しているのだが・・・何かしら、その「解」の条件に欠損が生じているのである。
夏目漱石が言うが如く・・・我々の「結果」は全て自業自得である。しかし、隣人を助ける事が、困窮を救うことが、我が身の為にならないでもない・・・。「情けは他人(ひと)の為ならず・・・」の箴言が、今日においても健在なのである。

TVに冷たいcommentを発する職員に、この箴言の意味が理解されれば、「法」の使い方にも工夫が生れるのではないか。そして、一つの「工夫」は、その「法」の改正・改善に結びつくものなのであろう。「働かざる者、食うべからず」の箴言は・・・使い方を誤ると「幾多の生命」を危険に貶める。同様に、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」・・・社会主義の理念だったし、毛択東も、この様に叫んだと思うが、これも危険な箴言、mottoだった。何故なら、能力に応じて働く職場があって、必要に応じて取る普遍性、多様性を確保することの難しさに名目したmottoだからである。
言葉を尽くしても、万人を救う言葉は存在しない・・・何が原因であれ、苦しんでいる人を見捨てないこと・・・communityの必要条件であり、お節介の重要性であり、親切とは、嫌われる要因を含んでいて、真の親切になるのだ・・・と言う自覚であろう。そのお節介を、弁護する道具が、法の適切な運用であると・・・行政職員が、厳しい選抜を経て採用される意味も、そこにある。

少なくとも、個人が苦境に陥るのは、不運と、己の知恵の不足と、思考の誤りと、最大のものが傲慢である・・・行政職員・担当者は、それを諭し、必要な知恵を授け、そして、当面の危機を救うことに長けていなければならない・・・その資質を認められて、その職にあることに自覚をしっかりと持って欲しいものである。