教養なき政治家の不始末・・・

南京虐殺はなかった・・・」。理由は、南京に滞在した父親が、市民と心温まる交流をしていた・・・からだと言う。その時点が何時のことなのか・・・記事に明らかでないので、多少論点がずれるが、それは何時ものことなので、気にしないで、私の論を展開する。

昭和7年に始まった「上海事変」・・・当時、ドイツの広範囲な軍事援助を蒋介石が受けていた事実を、日本の歴史家は余り語らない。当時のドイツは、中国の当面の敵は「日本」であり、毛択東の共産とは、二次的な的であるとして、蒋介石に、その軍備、作戦、戦場の指導を含んで全面的に援助していただと言う。つまり、日本は、中国と闘っていた様で、実は、ドイツと闘っていたと言っても過言ではなかったのか・・・・NHKの証言記録(DVD)に、当時の兵士達の証言を録画しているのだが、もう一度詳しく観て見ようとは思うが、今は印象で論述する。

チェコ製の軽機関銃・・・ドイツが無償で供与・・・これは、参戦して辛うじて生き残った兵士の証言としては、凄まじいものがあったと言う。先ず「音」が全く違った・・・日本軍の機関銃は玩具のようだったとの証言もある。この機関銃の威力の前に、上陸部隊は、殆ど釘づけにされて、何次にも渡って増援部隊を派遣している(はずである)。つまり、当初の、第3師団、11師団ではとても対応できなかったと言うこと。言い換えれば、犠牲も、当初の予想を大きく上回り・・・ソ連の支援も加わって、蒋介石は、日本軍の侵攻を、ここで食い止める可能性を信じていたらしい・・・それほどまでに厳しい戦況でもあったのである。
しかし、中国軍は「南京」に退却する・・・この時は、敗戦の軍は、軍服を脱ぎ棄て、民間人の姿で、危地を逃れて南京城に逃げ込んだのであろう。
追った日本軍は、日本の論理で、中国軍・人民(兵士)を追って南京に入場・・・掃討作戦を展開したことは、軍隊の常套手段である・・・戦友を殺された恨みは、戦争の建前、正邪とは関係ない。。。唯々憎しの感情が、この南京城内で暴発したとしても不思議はない。。日本軍の論理では、民間人に化けた兵士も、殺戮の対象になるだろう。しかし、その判別の基準はない・・・日本軍の思い込み、判断で、処刑が行われたことは想像に難くない。一人、一人銃殺したcaseもあるだろう。数十人、数百人をgroupにして、銃殺した・・・caseもあるだろう。何十万の人間を銃殺、虐殺可能か?・・・等と云う馬鹿げた論理もあるが、殺される側の論理としては、南京城内で、戦闘に巻き込まれた「死」も、処刑された「死」も、日本軍による虐殺に分類されるだろう。なにしろ、上海にしろ、南京にしろ、日本軍の軍事行動・作戦自身が、理不尽この上ないものであることは言うまでもない。加えて、上海で、チェコ機関銃で煮え湯を飲まされたことへの「恨み」は、大きなものがあったことは否めない。上海上陸の理不尽と、チェコ機関銃の威力への恨み・・・理不尽とは言えまい・・・と、それを無視して、南京虐殺を語るのは、意味がないのではないか。数が問題ではない・・・その目的と行為の理不尽性が問題なのである。これが「戦争」なのであり、勝者には勝者の論理があり、敗者には敗者の理がある。最終的には、太平洋戦争は、アメリカに負けたのではなく、中国に負けたのであり、その敗者が、一時的には存在したかもしれない「勝者の理」を主張しても、何の意味もない。河村市長の滑稽さである。
閑話休題・・・・この国の政治家は・・・あるいは我々国民も・・・得てして、「数」で問題の本質と語ろうとする。例えば、「孤立死孤独死」、「自殺」「飲酒運転の犠牲者」、「交通事故件数・被害死者」等々・・・数が少なくなれば喜び、増えれば憂う。数は、目標ではあっても、問題を論じる事にはならない・・・その数の中に、己が入るか、入らないか・・・それが、個々人の今日の生き方、明日への努力であることを覚悟しない・・・数で論じる限り、全ては他人事なのである。
河村市長の、能天気な談話・・・「木を見て、森を見ず」と言うべきか、この程度の人物が「市長」というのも情けない話ではある。清朝消滅後の中国は、「世界の強国のえさ場」ではあった。そして、朝鮮半島への、列強、なかんずくロシアの進出を怖れた日本の政治的・軍事的行動が「韓国併合」だったのである。
また、シベリア鉄道計画当時は、ロシア、フランス、ドイツ、そしてイギリス(だったろうか)、中国を「四分割統治」の計画もあったのだとか・・・恐らく、日露戦争で消えたのだろう。そして、アメリカは、日本の朝鮮統治は積極的に認めた。しかし、中国への深入りは、自らの権益と、イギリスの権益の防衛、ついで、ヨーロッパ勢への不安払拭に賢明だった。加えて、ベトナム侵攻の南進政策が具体的になり、クズ鉄、石油の禁輸を具体化して、真珠湾への奇襲を誘導した・・・戦況が芳しくなくなると、「大陸打通」などと、上海とビルマ国境を往復しただけの作戦に、多くの将兵の命を犠牲にした・・・そんなお粗末な「軍隊(勿論上層部)」だった・・・南京城内の写真(外国特派員撮影)でも、遺体は彼方此方に散乱している・・・この数を数えることに、如何ほどの意味があるのか・・・3・11の被害の大きさを、犠牲者の数では計れないことに同じではないのか・・・河村市長の脳の軽さの所以である。
もし、日本軍が、南京城を包囲して、一発の銃声も響かせず、中国軍の降伏を待った・・・と、言うのなら、「虐殺はなかった・・・」と言う根拠はあるのか知れない。銃を捨て、軍服を捨てて二元込んだ、兵士、住民(兵士が混在していたとしても・・・)を、外国特派員の写真の如くに射殺しなければならなかったのか・・・・「しなければならなかった・・・それが戦争だ!」と主張するなら、「虐殺がなかった・・・」と主張は出来ないだろう。更に言えば、「降伏勧告」が慎重になされたのか・・・それを伝えるものもない。

父親が、市民と心温まる交流をしていた・・・こんな「自己弁護」が許されるのか。私の家族も、終戦の日から、興南港を堕出する日まで、父の部下だった、若い朝鮮人のお世話で、殆ど苦労らしき苦労はなかった・・・引揚後の、内地の日本人の冷たさの方が辛かったくらいである・・・しかし、それを以って、日本政府が、朝鮮半島に「善政」を敷いたか・・・確かに、食料が不足する様なことはなかったかも知れない。しかし、朝鮮人と日本人と、その生活環境には雲泥の差があった。終戦の一ヶ月後から、父が、嘱託として再雇用されるまで、日本窒素の「傭人社宅・・・実体は調世人社宅」に住むことを強制された・・・その差は、月とスッポン、雲泥の差の数倍の違いだった。
父の話では・・・社員の資格は、「傭人」→「雇員」→「準社員」→「社員」と成っていて、与えられる社宅にも「差別」があった。
父も、採用された時は「傭人」だったそうだが、寮生活だから、「傭人」社宅は経験していない。私の記憶は、「準社員社宅」から、終戦時は、「社員社宅」の2戸建てに住んでいた・・・all・電化、上下水道完備、冬は全室に蒸気暖房・・・南向きの部屋は、総ガラス、一間の広縁がついていて、数十坪の庭付きだった。
片や「傭人社宅」は・・・共同水道、落としこみの、屋外共同便所、アンペラ敷きの二間・・・外との仕切りは、障子一枚・・・ガラスはない・・・だった。

それでも、部下達は、なにかと、家族ぐるみでわが家に出入りし、月に一度の食事会を楽しみもし、私を弟の様に可愛がったくれていた。私には、楽しい思いでしかない・・・また、生活環境の中で、危険な目に遭ったこともない。父は、憲兵を殊更に嫌い、警戒もしたが、憲兵・警察を身の周りに感じることは殆どなかった。
また、空襲を避けて、朝鮮人宅(傭人社宅)に預けた「着物」等も、最後まで殆ど無事で、脱走の舟の調達を賄って余り在るほどだった・・・と、これは母の述懐であった。

しかし、社会人となり、成人となり・・・自分なりに読む、あるいは聞く・・・学ぶ事のなかで、韓国併合からの歴史を学び、私の家族が、今日ある事が僥倖であり、父の部下達の献身があってのことだったことを思ったが、だから、彼らが、日本の統治の時代を喜んでいたのではないことを知るに至った。確かに、この半島の政治に纏わりついた「両班」政治には、それなりの圧政の部分があったことは、歴史的に云い得ても、それが、日本と言う他民族、軍事力国家の支配を世論込んでいたか・・・それはあり得ない・・・・それは、日本は、アメリカの占領を無抵抗に受け入れた。しかし、アメリカに従僕したのではない。アメリカをして、日本人のidentityを尊重しつつ、慎重に行われた占領政策の中で、大きな襤褸がでなかっただけのことである。その余波を、今沖縄が背負っていることは、まぎれもない事実である。

その意味では、河村市長の、南京虐殺否定のコメントは、「沖縄」の人々の気持ちを逆なでするものであると、言えなくもない。「沖縄の人々が、駐留の米軍と仲良く暮らしているので、沖縄県民は、米軍を歓迎していると・・・・これに似た発言をした、アメリカ高官もいたが・・・」。
政治に、「人気取り」の要素が加わると、得てしてかくの如き政治家を生みだす。河村市長も、2・26事件の青年将校の様な気分なのだろう。Populism・・・それに国民・市民が踊れば、それは、国民・市民が、自らを滅ぼすに十分である・・・経験した筈なのだが・・・哀しい現実ではある