議事録・・・・のこと

原発事故に関連する諸会議、打合せの議事録が存在しない・・・mediaをにぎわしているが、大凡の日本人、つまり読者は、驚いていないのではないか・・・「公的な記録」と言うことに関しては、日本人は、殆ど無関心なのではないか。

この列島の住民・・・私達が知るのは、主に江戸市民だが・・・は、書く事が好きである。否、文字が好きである。大陸から齎された「漢字」への憧れのDNAでもあるのだろう。西欧が、王や君主の政令や命令を伝えるのに、役人が、街かどで「大声」で、叫んでいたころ、日本では、「高札」で事足りた。韓国もドラマでは、壁紙が使われていた様子を再現しているから、「一衣帯水」の、文字文化圏ではあったのだろう。high-levelのLiteracyは、この緯度の特徴なのである。亀甲文字から現代の漢字へ・・・連綿と続く文明の、誇るべき文明であり、現世界で、これに匹敵する文明は存在しない。

江戸時代、長屋の住民も、色々な用件の伝達の手段は「手紙」だった。時に「結び文」、「巻紙」、そして「封書」・・・大名は、自前の飛脚を有していたし、浅野内匠頭の不始末を国元に知らせた「早駕籠」もまた、その飛脚の部類だろう。西欧の中世は、為替の制度は確立したが、王様、君主は、その「税」を集める為に、一年の殆どを旅に過したと、歴史家は語る・・・この列島の支配者は、天皇であれ、将軍であれ、或いは藩主であれ・・・税金集めの様な賤しい旅はしていない。そして、西欧の中世では、街中で住民、領民への「法」の徹底は、「town・speaker」が叫んでいたのである・・・江戸も、その以前も、基本的に、「高札」の一文で事足りた、この列島のliteracyの素晴らしさである。

日記・・・ドナルド・キーン博士が、日記の文学性に気付かせられたのは、捕虜になった日本兵の日記、或いは激戦地で押収された、日本兵の日記によると、当人の述懐である。「この日記を拾った方は、日本の家族の元に届けて欲しいと、その末尾に「英文」で記したものもあったと、某番組で語っていた。
また、のんびりと輸送船で南方の島々に送られている時間帯の日記が一変するのは、激戦の島々に上陸してからである・・・つまり、苦境に立たされ、飢えに苦しめられる様になってからの日記は文学そものであるとも・・・方丈記徒然草・・・の教養がなせるものでもあるのだろうか。
しかし、「記録」を残さない・・・立つ鳥跡を濁さず・・・足跡を、正濁を合わせて残すこともない・・・とは、司馬遼太郎が、昭和を描く小説を断念せざるを得なかった理由の一つに挙げている。
日記とは、多分に「私的」な記録である。
それが、公的記録になると、全く冴えないのは何故か?
一つには、「書き言葉」と「話言葉」の乖離にあると説く識者は多い。18〜20世紀の哲学的著書には、弟子達のnoteを整理して出版されたものが多いのだとか・・・つまり、師の講義をそのままに筆記すれば、そのまま教科書に変ずる・・・しかし、日本語は難しいと言われる。
結婚式の祝辞や、色々な公的行事における祝辞、あるいは、葬儀の弔辞・・・には、やたらと四文字熟語が登場することがある。耳で聴いて「漢字」がimageできなければ意味は分からない。相手に理解して貰う様に語れば、それは、「かな」の説明になる・・・納得出来ないかたは、文章を全部「ひらがな」で書いて頂くと理解できるはずである。
また、議会の議事録を読んで、実際に傍聴した時に聞いたものと内容が異なることは度々・・・頻繁に傍聴していた頃に感じていました・・・・。つまり、録音したテープから、そのまま起こしたのでは、意味不明の発言になってしまうことが多いのである。
私の体験を少しばかり・・・数十社の大小企業が参加するprojectのmanagementで、managerのsupportを担当した時、議事を全て録音し、議事録化して、翌日の午後には、議事録として、参加企業の営業に送りつける役目を仰せつかったことがある。各社の担当者は、真直ぐ帰社することは少ないので、帰社したころに届く、私の議事録に感謝されたものだったが、文字に起こす時には、相当に神経を使ったものである。聞いている時には理解できた発言が、文字に起こせない・・・不思議な発見だった。前述の私の論は、その頃に学んだことでもある。勿論、各社の担当者は、自分のnoteと比較して、修正・訂正を言って来ることも、当然ある。しかし、「議事録」が、vender会議の度に届けられる珍しいcaseとして喜ばれるのが嬉しかった・・・その代償は、その度に徹夜をしなければならなかったことだった。
また、こんな体験も・・・・地域の区長を仰せつかった3年間、隣り組長を集めての会議が、年に何度かある。伝えるべきこと、聞くべき要望、建前は話し合うことになっているのであるが、結論は大凡決まっている。会議の始まる前に「議事録」を完成させて、「案」と鉛筆書きして、席上配布し、会議が終わった時点で、消しゴムで消して貰う・・・万が一、結論が違った時は、別の議事録を、後日に配布するつもりだが・・・一度も、その必要はなかった。

原発関係の諸会議の議事録が存在しない・・・と、news聞いた時、官僚も案外に「頭」が悪いな・・・と、思ったものである。各出席者のnoteには、議事録は存在しているのだが、各人のnote毎にnuanceが異なるので、公的に整理されていない・・・と、言うのが正しいのだろうと・・・。
担当の官僚が、そのnoteを集めて、その記述をarrangeして、議事録として編集すれば、坪を外さなければ、立派な議事録になったはずであろう。Noteの内様が大き食い違う部分は、当人同士で再確認すればよいし、第三者的立場の方のnoteを参考にすることも可能だろう。

それくらいの知恵が働かないはずがない・・・と、私は思う。つまり、国民が、mediaが舐められているのである。また、mediaに協力的な方のnoteを借りうけて、仮の議事録を作り上げて、話newsにする事だって可能だろう・・・脅しになるかも知れないが・・・。
「議事録がなければ、我々の方で作る・・・」と、圧力を掛けるmediaであって欲しい。私は思うのである。我々は、文字を愛する民族なのである。だから、「言挙げ」しないのである。今一度、己のethosを、司々の方々には、己の事として確認して頂きたいものである。