私達は、亡国の民なのか?・・・・マスコミ、メディアの怠慢で「亡国世論」の片棒を担がされているのか・・・その自覚は?

瓦礫撤去・処理・・・

瓦礫の撤去、処理が進まない責任についてのmass communication、mediaの責任は大きいと、私は考える。
更に・・・その自覚がないことは、絶望的な無責任であろう。
各紙には、読者の投稿のPAGEがある。しかし、其処に、被災地の「瓦礫」についての意見は全く掲載されない。投稿がない分けではないだろう。故意に「没」にしているとしか考えようがない。

Media・・・新聞、TVが、「瓦礫撤去」について述べないのは、その現状さ報道しようとしないのは、あるいは伝えないのは・・・「我が県も、街も村も・・・反対しよう・・・」と呼び掛けることが不可能だからである・・・「受け入れ容認」の報道をすれば、読者離れが必至と、私は見ているのだが、「没」にしている投稿には、そんな意見はないのではないか・・・寧ろ、きちんと対策を講じて受け入れるべきだとする意見が多いのではないか・・・と、私は推察する。

TVでは、まだ、義捐金の呼びかけが続いている。しかし、「瓦礫・受け入れ」のcampaignには、まだお目に掛からない。

国会議員も県知事も、「迷惑施設・瓦礫」には消極的・・・否、否定的・・・と言うことは、火の粉が我が身に降りかかった時は、県民、住民は、全て我が身に受け止める覚悟をしなければならないことである・・・しかし、新聞もTVも,はたまた、国会議員も県知事も、市町村の首長も、すべて、政治家としての責務を回避している。つまり、歳費を横領している様なものである。

国民に、県民に、住民に・・・ものが言えない環境、それが、今日のpopulism政治の蔓延であり、亡国の様相なのである。事あるごとに「国民の声」・・・と、宣うのだが、新聞の投書欄に、新聞にとって「危ない」投書を「没」にして、読者の、国民の声を伝える公器としての職責をはたしているのか、存在の責務を果たしているのか・・・政府の対応が遅い・・・対応が悪い・・・真実を伝えていない・・・等などと、己の「あり様」を棚に上げて、mediaとしての職責・責務を忘れた・・・故意に・・・日常;恥ずかしくはないのか・・・記者会見の席上に、瓦礫の処理に関する質問が少ないことを思う。あるいは、皆無だったのかも知れない。質問が、「天井に吐いた唾」となるなら、迂闊には質問も出来まい。
幕末に・・・国を守るのは「お上」の仕事だと・・・イギリス海軍の水兵を驚かした長崎の漁民の姿に、今日の私達が重なる。
我が街に「瓦礫」が来ないことに安眠をむさぼっている国民・・・国民ならぬ亡国の民ではあるだろう。あるいは、「茹で蛙」的な国民・市民と言うべきだろう・・・愛国心のひとかけらも持たない・・・。