セルフネグレクト・・・・

私達世代には珍しいことではない。「痩せても枯れても、俺はオレだ!」の気概を持った方々が多かった。誰が恵んだか、あるいは援助の手を差し伸べたか分からない・・・そんな「援助」を素直に受け入れる方は多かった・・・しかし、そんな方は、無暗に自己主張をすることはなかった。小さな集会の片隅で、時々笑顔を見せながら、黙って、メンバーの言葉に頷いていた・・・そんな姿が幾つか想起される。
私の祖母の弟も、坑内で働かせてくれたら、「生活保護」は要らない・・・と言い、俺に恥を書かせるな・・・と、静かに呟いていた。近くの炭坑の労務主任が、半日だけ、当人の体調を見ながら、坑内での作業を認めていた・・・そして老人は、季節の挨拶を欠かさなかった。博打もせず、贅沢もせず、若い頃から、暇を見ては拡げて来た畑には、果物が実り、種を播けば野菜が収穫でき、時に、鶏を遊ばせて、時に贅沢を楽しんでいた・・・それも、体力的に叶わなくなっていったが、最後まで、「生活保護」とは無縁だった。時々、破戒坊主が、失くした、何人かの子供や、早くに亡くした妻の月参りに訪れてはいたが・・・きちんと「お布施」は包んでいた。破戒坊主だから、時には「肉」等を下げて来て、談笑の日もあったのだと言う。最後は、愚痴も無く静かに逝った(行年;80歳)。

派遣村」の英雄が、内閣府の一員になって、一見もっともな論理を展開する・・・外国人が、引きも切らずに訪れるのに、何故日本人に仕事がないのか・・・それを政府の所為として、政策の不備として非難はするが、自らが、対応出来るsystemを提案することもない。「命」の尊さを時に語り、彼等の無為な日々を語り、彼等を救うことを語る。
しかし、彼等を「救うとは、如何なることか・・・」。年金を受給しながら無宿生活を続けるHomelessがいる、年金は家族が受け取り、自身はHomelessとして、救済の恩を受ける。その知恵がなく、あるいは、自らの矜持を大切にする人が、孤立死孤独死する・・・昨今の状況ではないか。宿泊施設を行政が提供しても、なんだかんだ御託を並べて、地下道や駅の構内に襤褸を広げる・・・そして、几帳面に焼酎を飲んでいる。

立川市の担当者の言う如く・・・「言わねば分からぬ・・・」とは、民主主義の根幹である。しかし、「我慢する」事が、蔑まされることであってはならないのだろう。「我慢」する、「強がり」を生甲斐とする・・・・武士は喰わねど高楊枝・・・それが、この列島に住む住民の矜持だったのである。江戸時代も、犯罪者の背後にある時用から、犯罪者自身が裁かれるよりも、それを見逃した、見殺しにした大家が罰せられることが多かったと言う。「義賊」の話が、江戸市民の好きな講談だった所以もそこにある。この列島の住民は、我慢強かった、だから、慈悲も生きて居たのである。また、江戸時代の身分制度の中の「賤民」も、賎民であるが故の「働く自由」を与える身分であったと解説する歴史家も多い。「賤民視」は許されない現代である。しかし、安易に生活保護を求め、生活保護の受給を生活の知恵化する傾向があっての、立川市の担当者の、ともすると冷たく聞こえるcommentになるのだろう。
「我慢」、「強がり」・・・その矜持を尊びながら、最後のstageで、その命を救う・・・暫しの間でも・・・あるいは、しょ矜持を尊ぶ、尊厳ある死のための「生活保護」・・・そんな理念を有する行政と、それを支える、我々の日常でありたいと思う。

「慈悲」を求めては、人間は堕落である。悪貨が良貨を駆逐する・・・とは、時に、矜持なき人々の安易、他人頼りが、豊かな人の「救済」へのmotivationを鈍らせてしまう・・・そんなことも意味するのである。

昨今、これだけ落ち込んだ道徳を回復するのは難しい。しかし、良貨としての貧しさ、生活困窮・・・そして、ぎりぎりの辛抱への行政の救いの手・・・決して無駄ではないはずである。当人の誇りを傷つけない様に、矜持を大切にしながら救う・・・難しいことだが、誠に人間らしい思考であり、行動であろう。例えば、utilityをそれとなく援助してあげる・・・いきなり「止める」こととの違いを行政、あるいは、その供給者に考えて欲しい。「何が生じているのか?、「何が生じるのか?」、闇雲に、虚偽の救済を求める人間にだけ、行政の目が行けば、それは社会の崩壊であり、世間の堕落である・・・そして、何よりも、その司にある人間を腐らせてしまう。

如何なる仕事であれ、如何なる働き方であれ・・・人間、最後まで働ける環境・・・自立を意味しない・・・を与え、生きる努力を認める・・・そんな社会で在って欲しい・・・それが納税者の矜持であり、願望である・・・と、私は自覚するのだが・・・・

ヨイトマケの歌」・・・三輪明宏は、否定的に歌う・・・私には聞こえる・・・昭和21年、22年、ヨイトマケの現場の母を恥ずかしいと思ったことはない、感じたこともない。母・30歳・・・お嬢さん育ちの母が、引揚者故に「よいとまけ」の現場にいる自分を恥じたか、否か・・・それは分からない。恥じる被まさえなかったと、私は思う。一日も早く、嘗ての・・・植民地での豊かな生活を取り戻して見せる・・・子供に、貧乏を卑下させてはならない・・・そんな気概の母が怖くもあったが、「貧乏」は結果である。自らが、其処からの脱出を志す限り、埋没しない限り・・・。
生活の為に「悪事」を働く私を庇い。時の褒め・・・母の傍にあって、私は成長した。恥ずかしい事だとは思わない。あの時代が再来しても、「俺は生きていける・・・」とは、私の自身である。勿論、その時代には、その時代の「悪知恵」が必要だが・・・・。しかし、体力が失せた時・・・どの様に矜持を保つか・・・あと幾ばくも無い時間であっても、考える責任はあるだろう・・・と、私の「責任」として・・・。

ヨイトマケ」もない。「ニコヨン」もない。故に、行政の知恵が「生活保護」に収れんするのだろうが、新しい時代の、新しい貧困に、再起のchanceを与える、行政の知恵・・・「殺さぬ様に・・・生かす気力を与える・・・」そんな、生活保護、あるいは支援、援助を・・・と、望みたい。
「殺してはならぬ!、「無為に、死なせてはならぬ!」と政治に望みたい。