小沢裁判・結審・・・・茶番の終わり・・・・

殆ど、小沢一郎の暴言で終わった裁判だが、見えて来たのは、「検察の杜撰さ・・・」だけで、その杜撰さが、「小沢無罪」を世間に納得させる為に必要な条件だったのだな・・・と、私は納得した。そして、小沢一郎の政治生命も終焉を迎えた・・・と。師・田中角栄の様に、塀の向こう側に閉じ込められることがなかったのが、弁護士の責務だったし、実力派・政治家を、田中角栄の様に惨めな最後に終わらせてはならない・・・との、裁判所の判断でもあったのだろうと、私は推察する。

つまり、「政治」とは、その形、内容が如何様であれ、そのsystemを崩壊させてはならないのだし、被統治の側の納得・諦めも、その大きな要素として存在すると言うことだろう。4億円の資金調達が不明なのは、彼の人格に関わる部分が多い。そこに犯罪が絡むか、否かは、それを立証できるか、否か・・・であって、犯罪の有無とは別次元の問題である。「犯罪」とは、犯罪であると立証されて初めて「犯罪」たり得る・・・そのことを、我々の大衆的感覚をして、判断を誤らせるのであるが、全く無駄ということでもない。つまり、「火がない所に煙はたたない・・・」しかし、その煙を「蒸気」だと言い張ることができれば、煙は煙に過ぎない・・・小沢裁判とは、その様な感覚で受け止めるべきなのだが・・・・
・・・同じことが、数人の男性から多額な「金」を撒きあげ、あげくに、練炭で、殺した・・・と、私は断定するが・・・「女」の犯罪にも言える。恐らく、軽微な犯罪、もしくは「無罪」の可能性もある。私は、「男」のダラしなさ・・・で、件の女に犯罪を犯させた・・・と、断定し、被害者は、件の「女」と言う倫理上の判断もあるのではないかと考える一人である。

小沢一郎にしても、彼が極悪な政治家と判断するとすれば、それは、彼をして政治家たらしめている選挙区の大衆性である。己が、如何に貧困に甘んじようとも、小沢一郎が、4億円を右から左に動かす政治的実力者であることに信頼を寄せる「一票」のなさしめるものである。裁判の是非の問題ではない。
東日本大地震の被災地を、多くの政治家が訪れ、talentが、journalistが訪れるが、小沢一郎は殆ど訪れていないと言う。被災地の一票にとって、彼の訪問は必要のないことなのである・・・その意味では立派な政治的mannerではると思うが、韓流ドラマの貴族や王様の前にひれ伏す「奴婢」の姿が垣間見える・・・それを恥と思うか、思わないか・・・それは、私がとやかく言うことではない。寧ろ、そんな小沢一郎の「尻」にぶら下がる、提灯政治家の姿が情けないだけである。しかし、東北の人々と違って、少なくとも九州の庶民は違う・・・大衆すらも庶民の意識を有している・・・恐らく、次の選挙で半数が姿を消すのではないか・・・小沢一郎も、応援には押し掛けられないのではないかと思う。ある、女性議員に注目はしているのであるが・・・。

判決が如何なるものか・・・・無罪;検察は控訴しないだろう。まだまだ、小沢一郎をとっちめる「ネタ」はこれからも見つけることができる・・・その日の為に「腕」を磨いておけ・・・そんな気持ちだろう。
有罪・・・被告は控訴する・・・・もし裁判が長引けば、小沢一郎に再起の日はないだろう。そして、温情の無罪・・・そんな裁判所のscenarioではあるだろう・・・それで良いのだ!

そして、小沢復帰・・・復帰が成ったとして・・・の日、民主党は、その姿を埋没させる・・・分裂する程のenergyすら持ち得ないだろう。それで良い・・・こんな馬鹿げた裁判・・・不必要とは言わないが・・・今回は、此処まで・・・だと、私は思う。
みんさん、御苦労さんでした・・・!