求刑を上回る判決・・・幼児・虐待死の判決・・・・セックスへの対価か?

大阪地裁・・・幼児虐待・死の両親に「15年」の実刑判決。求刑は10年だったから、5割増しの実刑である。これを問題視する評論家、司法関係者も多いのだろうか・・・新聞には、批判的な論評が目立つ・・・・。

子供が生れた・・・勝手に生れて来た・・・の間隔と、子供を授かった・・・との感覚の違い。つまり、セックスの果ての邪魔ものの誕生と、心から、お互いを想う(愛)気持ちから、その結晶(子供)を求める・・・末では泣かされる存在になるにしても・・・その誕生の条件を子供は知らない。

先日、小児専門の看護師の話が、NHK・TVに放映されていた。やっと笑える様になった幼児が、看護師の笑顔に、「笑顔」を返す・・・そんな笑顔を天使の笑顔と言うのだろうが・・・人間の感情は「信頼」から始まるのだな・・・そんな事を感じさせられる、教えられるsceneだった。

この非人非人たる、セックスの権化の様な父親ならぬ「♂」と、母親ならぬ「♀」によって誕生させられた「命」でしかなかった・・・この様な、♂と♀に、人間の心を宿した「子供」を生ませてはならない・・・私が裁判長なら、15年の実刑を課する前に、まず「去勢」する処置を命じるだろう・・・と、この文章を書きながら怒りがこみ上げる。
かつて・・・昭和20年代・・・虐待される老婆(老爺は少なかった)の姿を、少年の私の目は捉えている・・・しかし、大人になって得た知識からは、その原因を重ねて来たのは、苛めにあったいる当人の生き方、過去にあると判断されるものが多い・・・在って良いものではないが、政治の中の、福祉の貧弱さが生んだものでもあったのである・・・私が、昨今の「増税論議」を、懐を重くし、脳を軽くした現代人の「贅沢病」とも言うべき疾病だと考える所以であるが・・・。

しかし、嬰児、幼児は違う・・・この様な親の下に生れた「子」・・・無意識の深層に、「何時かは仇を討つ・・・」との復讐心を育てているのかも知れない・・・両親が、虐待の上で、この世から抹殺する・・・神への復讐でもあるだろうし、明日からの、sexへの楽しみの為でもあるだろう。ライオンは、sexの対象とした雌が、子連れの場合は、その子供達を全部殺して、ゆったりとsexを楽しむのだと言う。嬰児、幼児を殺す親は、殆ど、雄・ライオンなのだろう。ならば、母親は?・・・ライオンにも悖る・・・としか言いようがない。

子供手当・・・子供を虐待しながら、「子供手当」でパチンコを楽しみ、その負けた悔しさを子供を虐めている親はいないか・・・そのうっ憤を虐待に晴らしている親はいないか・・・厳しい検証も必要ではないか。政治の所為でも、社会の所為でも、いわんや時代の所為でもない。
私は、義務教育の中で、しっかりと、十分に時間を掛けて教えるべきであるし、生活の習慣として、必要な事は身につけさせべきだと考える。つまり、小学校であれ、中学校であれ、学校の成績を競いながら、その人間性の寛容がお留守になっている、現今の教育環境・・・教育者も、十分に自覚すべきではないか・・・。

中学校までが「義務教育」と言うことは、中学校の卒業証書が、社会人としての存在を許す「認定書」であるべきであり、「認定書」を発行した学校の責任も問われるべきであろう。選挙権も与えるべきだし、成人として処遇すべきだろう。そして、「罪」も、成人の刑罰が課せられるべいであろう。件の親は、共に29歳・・・恐らく、大人への成長の意識のないままに、29歳になったのであろう。それは、中学校を経た時に、「成人」の意識が欠如したままに放置され、当人達も、放置された不幸も知らずに、sex能力だけを肥大化させた結果であろう・・・教育環境が生みだした、怪物と言えなくもない・・・。
控訴もあるのだろうから、刑が確定した分けでもないだろうから、再審の結果は尊重されるべきだろうが、その過程で「教育」も論じて欲しいものである。しかし、私は、生殖能力の果てるまでの禁固を望みたい・・・そんな気持ちである。そうでなければ、死した魂は許さないだろうし、あるいは、成仏できなくて、何処かを彷徨っているのかも知れない・・・成仏させ得るのは、社会の存在の在り様でしかないだろう・・・。