事故の体験・・・福島・原発と御巣鷹山・日航事故と・・・

御巣鷹山に、日航123便が墜落した時、その原因が、その事故前の「尻持ち」が原因であると判明・決定するまでに、可なりの時間を要したと記憶する。恐らく、その「尻持ち」を目撃した人も可なりいたのであろうが、それが、こんな事故に繋がるとは思ってもいなかったのだろう。特段に、その「尻持ち」が、隔壁の損傷を引き起こしていることにすら無関心だったのでは・・・と、新聞で知った時、「そんなことがあるのかと、私の周りでも驚きの声があった」。私は、出張の移動の途中に、眼にした旅客機がそうだったのか・・・と、思わないでもなかっただけに、意識的には、ほとんど事故を目撃した様な、記憶になっている。
あのcockpitの機長の声と、cockpitに流れる、emergencyの音声が、今でも、聞こえる思いがする。

福島・原発事故・・・原子炉が直接に破戒されたのでもないし、発電というsystemの中で、破損したのでもない。地震を感知して、原子炉は正常にsystemを作動させたのである。つまり、非常電源の喪失が、bent systemの不備が水素爆発の遠因となり、窒素ガスの封入のtimingが遅れが重なって、事故の規模を拡大したのだと、私は考える。

Bent systemの不備は、セシューム濾過のfilterの設置が、地元の不安を煽ると言う事情で、放置された・・・と、報道にあった。つまり、必要性の説明をすることが不可能な、地元の「原発・意識」だったと言う事である。アランの幸福論にある・・・きちんと見ないから「不安」が増大するの説明にぴったりの事例である。きちんとしたbent・systemで、きちんと作動していたら、その後の対応も違ったものになっていたのではなかったか・・・perfectな対応になっていたとは思うわないが・・・・

電源の喪失は、設計の油断であり、それを、helicopterからの放水で対処しようとしたことは、「冷却」に関するtheoryへの無知であると断言できるであろう。この常識、研究不足が、その無知への無関心を惹起せしめた・・・と、言えるだろう。これは、御巣鷹山日航機の、「隔壁」への無関心に似たものである。40年間、これ程の地震も、また津波もなかった。しかし、歴史を紐解けば、想定出来ないことではなかった・・・つまり「技術・馬鹿」に起因する「無知」である。
普通のsystemなら、電源装置で止まれば、電源回復の手段を待つだけ、不可能なら、そのまま停止の状態が続くだけである。しかし、原発の「原子炉」は止まらない・・・設計者に、真の知識、技術的見識がなかっただけのことである。言うなれば、非常停止不可能な「新幹線」、あるいは、航空で、pilotが脳梗塞を発症した旅客機・・・の様なものである。
「経験がないと分からない・・・」問題としては、情けない技術levelだとは思うが、そんな国に住んでいる、運命的な悲劇ではある。しかし、原発のsystemが危険だとは、私は思わない・・・systemの全てが、絶対対応不可能な瑕疵を含んでいるものであり、日常の観察・点検・事故の予測・予見は、その危険を回避する手段にすぎないのだとの見識を前提に・・・。

両者共に、「起って見なければ、体験しなければ理解できない・・・」事故に近いものである。しかし、systemの理解・・・隔壁の機能・・・と、その厳重な理解に基づく厳重な点検が行われていれば防げた事故であったはず・・・「想定外」で逃げるなと、知識人や、無責任な評論家が、安心して責め立てる要因でもある。

原子力発電・無用論」がかまびすしい・・・自然energyを語る識者は多い。果たして・・・具体的な数値・・・今判断出来る・・・すら無縁の、声の大きさだけが「正義」の根拠であるのが寂しい。先日も、アイスランド地熱発電が紹介されていた。全島が火山の上・・・大きな産業もなく、人口も少ない・・・また、国土も狭い・・・その条件で可能なのだろうな・・・と、思いながら観ていたが、これが、日本の各地で可能かと言えば・・・果たして・・・温泉旅館を養うには十分でも、発電までは・・・1億人、あるいは、数千万人の人口と、重工業を支えるだけのenergyが確保できるのか・・・石油に代わる海底資源の可能性は信じても良い・・・が、そこから「発電」までのsystemには、まだまだ可能性を信じられるものではない。
「もし、私が500年生きる・・・」として、原子力発電無用と言い切れるか・・・私が疑問だと思う。曽野綾子が繰り返し述べているように、「電気」は、民主主義の根幹である。全ての人に平等に灯りを保障する。また、産業廃棄物は、電気から直接には生れない。人類にとっての理想のenergyである。

「核廃棄物をどうするか・・・」、大きな問題だが、これからの知恵の出しどころだろう。解決出来ないとは、私は考えない。常に困難を克服せずして、人類は存続できないのだから・・・つまり、化石energy源の枯渇を怖れて、人類は「核energy」に手を出した・・・しかし、後始末の技術が確立する前に、実用化に踏み切った・・・それだけのことである。化石energyの後始末は、今、地球温暖化の問題として露呈しているが、人類を少しづつ滅亡に導くことはあっても、「核」の様な強力な、短兵急なものではない・・・しかし、「核」以上に怖いものかもしれないのである。
その事に気付いて、多少は慌てているが・・・・残念なのは、そのenergyの根源足る資源に限りがあると言うこと。地熱発電風力発電、潮流発電、太陽光発電・・・水力発電の後継者足るか、否か・・・私は「否」だと思う。つまり、「力」で、水力を凌駕できるとは思えないからである。
最終energyは、「太陽」であろう。しかし、其処に至るのには、太陽の寿命との競争になるのではないか・・・50億年。30億年・・・ならば、その下のlevelのenergy・・・「核」を置いてないであろう・・・。石油に代わる「海底資源」・・・数十年、いや百年を要するだろう・・・論じるには早すぎる・・・。

脱原発」・・・文系評論家、文学者の語る論理は、余りにも情緒的に過ぎる。産業の現場を知らず、構造物の原理を知らず・・・何を以って自分が生かされているかということにすら無頓着である。・・・理系の「脱原発論者」は、一先ずの「売名行為」でしかない。論理的に考えれば分かる事を、「核」の恐怖だけを煽りたてて、自己満足・・・至って質が悪い。

人間の文明とは、日々を追って、人間の幸せの追求によって、その姿を変えるものである。その過程で、危険も生れる、事故も生じる・・・しかし、それを克服した時、飛行機がおいそれとは墜落しなくなる、滑走路上での事故が少なくなる。一つの世代では、全く体験することすらなくなる。クルマ然り、鉄道然り・・・おそらく、江戸時代の駕篭よりも事故は少ないだろう。明治初期の人力車よりも事故件数は少ないだろう。そして人類は、「速さ」のmeritを十分に堪能して生活を楽しんでいるのである。

御巣鷹山の事故は・・・多くの人々に「他人事」だった。地球温暖化は、自らの問題とはならない・・・思考の中の「地球」に我々は住んでいないからである。しかし「核の灰」は、現実のものとして、測定が可能である・・・その制度は問わなければ・・・。そして、数百年後のenergy問題には、瞑目して今が過せる・・・全てが、「他人事」の範疇に収まっている・・・面白いものだと、私は思う。汚さが見えなければ、それは美しい・・・地球温暖化が測定できれば、人間は、どんな意識を見せるのだろうか・・・・。
重ねて言う・・・energy問題は、自らが500年生きると仮定して・・・想像力を以って考えるべきだと・・・・。