武道必修化・・・子供の自殺・・・増加の危惧!

直感的に思う・・・「子供達の苦悩が深まるな・・・」と。小学校;7年間弱、中学校;3年間、高校;3年間・・・体育の先生、教師に、一人を除いて、全員が嫌いだった。その一人は「吉田先生」・・・中学の時に、一学期だけ体操の指導を受けた。つまり、「〜道」であれ、sportsであれ、器用さがなければ評価はされない・・・体育の教師からは、「いなくてもよい生徒」でしかないのである。
笹山の開墾、ボタ山の石炭拾い、毎日の水汲み・・・担い棒を使う・・・、便所の汲み取り、材木泥棒、貨車からの石炭泥棒、他家の庭に忍び込んでの悪事・・・等々、得意とするところだった・・・小さな支線の無賃乗車で、追われたことはあっても、捕まったことはない・・・・わが家では、私の存在がなかったら、引揚後の極貧生活を乗り切ることは叶わなかった・・・私の存在価値は大きかったのである。しかし、体育の時間は、むしろ、存在が邪魔になっていた・・・。

所が、「運動&喧嘩」は、からっしき駄目だった。つまり、ruleのあるものは駄目なのである。そのruleが理解できていないから、身体が、ruleに適合して動かないのだろう・・・高齢の今に分かることである。
将に「喧嘩」・・・闇雲にむしゃぶりついても、殴り掛かっても勝てるものではない。相手は、私の動作を観察しながら、きちんと殴るべき所を殴る、あるいは、足を払う・・・時には、抑え込まれて殴られる・・・泣くまで止めないから、何時までも殴られる・・・「早く泣けよ・・・」とは、仲良しの忠告だった。

小学校4年生の一学期までは、「教練」があったはずだが、苦しんだ記憶がない・・・植民地だった故かもしれない。しかし、父は、自身が虚弱だったこともあって、放課後の運動場で「金棒」の練習等をさせてくれていた・・・教育入隊で、軍隊の恐ろしさを知っていたのである。しかし、終生、「尻上がり」は出来なかったし、「跳び箱」も飛べなかった・・・日本の敗戦、軍隊の消滅を喜ぶ一人なのである。しかし、「愛国心」は旺盛である。ただ、引き金を引くのに体力は要らないだろう・・・この論理が、体育系の人間には理解できないのである。
そして、社会人になってからは、1,000メートル超の高山には登らないが、九州の山々を、毎月の様に歩いていた。また、56歳を超えての単身赴任の房総では、3年半あまりで、内房外房線を、250回も使っている・・・つまり、土曜日、日曜日は、各駅停車の観光地と私が呼ぶ各地を歩いていたのである。一日に10時間以上も歩くことも何度もあった。柏から安孫子まで・・・あるいは、成田から、房総の古墳公園付近・・・等々の忍耐力も、少年の日々の中で培ったものであると自負したものだった。
因みに、中学、高校を通じて、数十キロのmarathonに棄権したことはない。しかし、体育の教師は、その力を信用しなかった・・・・つまり、運動神経に関する偏見なのである。得てして、体育系クラブの子供達、学生達は、教師の機嫌を伺うのが旨い・・・私の学生時代の偏見である。つまり、体育の教師を、普通科の教師よりも一段を低い目線に置いてみていたのだろうと思う。因みに、卒業してからのクラス会に、正副の担任を招待する時、副担当が体育系の場合は、招待から外すことが多い・・・と、耳にしたことがある。何かしら、「社会人」としての資質が、成長した、嘗ての教え子に劣るのだ・・・と、その方は語っていた。
・・・・・・・・・・・以上が、私の体育教師への偏見・・・・
「武道」が、中学校で必修化される。おそらく、「自殺」が増えるだろうと私は推察する。山下泰弘氏は、武道(日本とは様相が違うのだろうが・・・)の教育(体育の授業で・・・と言うべきか)において、「事故」が殆どないのだと言う。かれは、その原因を「指導者や保護者」に問題があるのだろうと、述べている。
私は、学校間の過剰な競争意識・・・つまり、子供達に競争を強いることがなければ、指導が出来ない、教育者の貧困であろうと、私の眼にしてきた「体育教師」に資質の中に思う。それは、昨今の「教育レース」の中で、成績の悪い子や、頭の悪い子(と、レッテルを張った子)を、試験会場から追放することの中に思う。
恐らく、「武道教育」の効果は、その競技の成績で判定するのだろう・・・し、判定しないと、自らの教授の効果を誇ることも出来まいし、また、その結果を求められるのだろう。学校内の徒歩競争なら、着順に番号を振らなくても済むだろう・・・可笑しなことだが・・・、しかし、勝負の決着の付かない「武道」・・・そんなものはないだろう。
先ずは、学校内での競争、そして、対外試合での競争・・・・弱者の排除、差別・・・文系的な子供には辛いものだが、じっと我慢の数年間を耐えるしかない・・・「武道の必修化」とは、別名、子供にとっての「暗黒」の始まりでもあるだろう・・・と、私は思う。恐らく、文系の青白い教師は、肩身の狭い職員室で忍耐の日々であろうし、右顧左眄しながらの日々に耐えるしかないだろう・・・恐らく、野獣的な教師が揃えば、日本の教育は完全に「逆コース」になり、「考えない」日本人への変身がはじまるだろう。

なにかにつけて、「学校対抗」の好きな国・日本だが・・・何故そうなのか・・・は、おそらく「お国自慢」のethosが醸し出すものでもあるのだろうが、明治維新から、「追いつけ、追い越せ・・・」の習慣から、教育が脱皮していないからだろうと想像する。アメリカの「アメリカンフットボール」の大学対抗戦・・・これは、半ばプロであろう。逆に日本では、それに相当する、大学野球が、甲子園程には人気を博さない・・・戦前、戦後の直後は、それなりに盛んだったし、スタンドも賑やかだった・・・が。

「勝たねばならぬ・・・」。つまり、負けるべくして負ける・・・その礼節を知らない国民なのかも知れない。その意味では、level毎にleagueを設定するsoccerの広がりは、目新しい様で、実は、相撲の世界は、ほぼ同じ・・・つまり、一定レベルの力士が勝敗を競うのであるから、大きなけがもないし、勝負の技術を競うことも安心してできる・・・しかし、高校野球は、甲子園までくれば、それは結構だが、地区予選では、可なり残酷な様相がある。だから、留学選手を擁するTeamが強い・・・教育者足るべき監督・coachまでもが、プロ化する。

また、costが掛かることから、「総当たり戦」が嫌われる。Tournament方式では、一度負けれれば、二度目の競技の機会は与えられない。Team内の、心理的規制が強く、結局、排除の論理が働き、sportsの醍醐味を失わせしめ、子供の夢と、努力の可能性の芽を摘んでしまう。

何故今回、「武道」だけが必修化されたのか、私には分からないが・・・・おそらく、「精神論」だろう。教室で、詰め込まれるだけ詰め込んで、「武道」と言う精神論で、武装が強いられる・・・弱い子虐めの舞台を整えている・・・と、私には見える。

山下氏は、事故は、「部活」で起っていることを、事故の原因としているが、必修化で、授業が部活化しかねない。国語、算数(数学)、理科、社会・・・・楽しみながら勉強できる筈なのに、それが苦痛になる・・・「武道」だけが、その桎梏から免れるか・・・私は難しいと思う。

職員室で、「学校の名誉」に為に尽くす、武道派の教師の発言が強くなり、学科の教師の声が小さくなる・・・・そして、武道で、学校の名誉を高めても、学業では名誉が傷つく・・・武道派の教師の発言力が増し・・・その雰囲気は、子供の「虐め」への促進剤になるのではないか。自殺の促進剤にもなりかねない。

目先の、目に見える結果を追い求める、この国の人々のethos・・・必修化を決める時に、議論・討論されたのだろうか・・・・自殺の増加と言う結果を見てから考える・・・何時ものpatternが、もう見えている・・・と、私は、氏のcolumnを読んだ。