軍事力とは・・・・興南・北柳亭里の光景の再現・・・

PAC3が、南へ、南へ!・・・終戦の日から幾ばくも無く、ソ連の進駐が始まった頃の、興南・北柳亭里の光景を髣髴としている・・・
歩く日本の兵隊、分解された「山砲」を担ぐ日本の兵隊しか見たことのない私に、トラックに兵隊を満載したトラックは、珍しいものだった。そのソ連兵の全員が、「マンドリン」と呼ばれる自動小銃を手にしていた。数は少なかったが、長身の銃を持った兵士の乗るトラックもあったが、「狙撃兵」だったのだろうか。
そのトラックの後ろから、さすがに大砲をみることはなかったが、小型の「砲」が続々と続いた。馬さえもいなかった。この日まで駐屯していた日本軍は、沢山の馬を持っていたと思うが、その後のこと・・・馬の運命・・・を聞かない。
9月に入ってから・・・葡萄が甘くなる頃・・・朝鮮人社宅との入れ替えがあったが、その日まで、そのトラックと軍・装備を満載したトラックは、連日の列をなしていた。そして、彼等の略奪が始まり、家屋への強引な押し込みが始まり、日本人や賢い朝鮮人が、ロスケの軽蔑を始めていた。例えば・・・腕時計を取られない知恵として・・・時計を止める・・・等々。生れてから「時計」を見たことも、勿論持ったこともない連中だから、止まった時計は、死んだ鼠に等しかった・・・と、被害に遭遇した父も語っていた。まだ、会ったこともない「アメリカ」との比較で、ソ連とは、とんでもない国だな・・・などと、軽蔑仕切り・・・「脱出」を急いだのも、このロスケの野蛮さと、南下する軍備の量を目にしてからだった・・・晩年の述懐・・・。
昭和21年5月に、帰国・・・昭和25年に朝鮮戦争勃発・・・・私は、中学生。父や、父の兄弟が、それぞれの購読紙を交換する為のmessengerが私だった。毎日、伯父と叔父の家に立ち寄り、新聞を受け取って配達していた・・・途中で、座り込んで読むことも多く、日々のニュースは、あるいは、教師よりも詳しかったかも知れない・・・興南の辺りのnewsがあると、大きな「赤丸」が描いてあったことを記憶に、今も止める。しかし、母校の「西湖津小学校」が無事で会ったことを知ったのは、最近・・・15年ほど前だったろうか、この地の訪問の誘いを受けた通信の中に見た時だった。興南は、左程の戦火にも晒されなかったらしい。日本窒素藻も、殆ど無傷で、今日あるのではないだろうか・・・しかし、大事な設備は、この軍備を南に運んだトラックが北に変える時に、持ちされたと・・・父も、ソ連の強欲を呆れていた。「耐火煉瓦」はおろか、「赤レンガ」までもを持ち去ったと言う。トルストイの国とは思えんな・・・幻滅も大きかった様子だった。

しかし、昨今の「PAC3」の移動・・・若い方には珍しいものだろうが、「戦争」への危機感がないのは、一面で「平和呆け」でもあるだろう。勿論、高齢者は、真正の平和呆けである。
朝鮮戦争が勃発した時・・・少なからずの日本人が・・・大人達が、「またの戦争」を覚悟したものである。中学校で、担任でもあり、社会科の教師でもあった高橋先生から・・・「日本は、10年毎に大きな戦争をしてきている。お前達は、必ず「徴兵」される・・・覚悟しておけ・・・」と、教壇の上で、宣もうたものである。片や私は、弁論部で、先輩達の弁士と「平和」を論じていた。石炭の傾斜生産に湧く筑豊であったからこそ可能だったのだろう・・・魁皇の出身地の直方市にある鞍手高校(旧制中学)の行動で、中学校対抗の「弁論大会」が毎年開かれていた・・・凄いヤジと、激しい演壇上からの挑発的な弁論・・・とが、激しくせめぎ合う、スリルと興奮が渦巻く弁論大会だった。最年長の3年生・・・私が一年生の時・・・が、高等小学校からの残留生だったはずだから、結構大人びた弁論大会では会ったのだろうと思う。3年生になった時、出場する弁士の予行演習を聞かされたが、まるで迫力のないものだった・・・論文の出来が良くて出場ができたのだと・・・当時は焼きもちを焼いたものだった。そして、炭坑は衰退への道を辿った。

PAC3をTVに観ながら、こもごも、現在の平和を思う。私は、北朝鮮との「戦端」が無きしもあらず・・・と考えるが、新聞もTVも、微塵もそれを感じさせない・・・言わば、GAME感覚で報道している様に、私には見える。
私の考える可能性・・・・
①ミサイルが、中国・上海辺りに命中すること・・・中国の老婆振りが面白かろう・・・
尖閣列島の海域に打ちこまれること・・・これは、北朝鮮と中国の談合の結果で在る可能性が高い。もし、中国の艦船が、事前に配備されるようだと、その可能性は大きい。PAC3がミサイルを撃墜した時、中国と北朝鮮は、それを「宣戦布告」と、強引に主張するかも知れない。
フィリッピン領土に打ちこまれる時・・・ASEANの動向が注目される。アメリカも黙ってはいまい。もし、フィリッピンとの間に、相互防衛協定があれば、北朝鮮本土への、アメリカの攻撃も合法化される可能性がある。
しかし、ミサイルが、大阪、福岡に向きを変え・・・それをPAC3が撃墜した時、撃墜でなくて大きな被害が生じた時・・・日本は如何なる対応をするのか・・・「話し合いで・・・」と、言い立てる「平和呆け」の日本人の傍らで、万歳を叫ぶ、在日朝鮮人の姿があるかも知れない・・・そして、それは恐らく、次の「関東大震災」で、先の関東だ震災の再現になる可能性は大きいだろう。

PAC3・・・我々に、列島を取り巻く環境が、決して「平和」ではないことを知らしめた影響は大なるものがある。我々に「防衛」についての考える契機を、図らずも与えてくれた・・・北朝鮮に感謝すべきか・・・。