何故、病を申告せずに免許を取得しなければならなかったのか?


癲癇はやっかいな病気・・・周りが「腫れもの」に触る様に遇すると、それはそれで当人には迷惑な話である・・・と、これは、私の僅かな体験で思うことである。まだ、クルマが一般的でない社会(時代)では、その病故の卓抜な能力に助けられることも多かった・・・と、記憶する。現在でも、ダウン症の子供の卓越した才能が、TVの話題になることがあるが、それは、正常児の日常を大きく凌駕するものであり、我が身の、才能の乏しさを教えてくれるものでもある・・・一瞬、謙虚な我が身が出現するのだが、また、傲慢さを復活させる故に、「平凡」さを自覚させられる・・・悲し事だが・・・。

今回の京都での事件・・・免許証取得の時の「申告」を怠った、ある報道では「隠蔽」したことが問題にされている。人間的差別が、体形的に明らかな場合は問題にされないが、正常人(好ましくない表現だが・・・)と外見的に変わらない場合は、それが発覚した時の、当人を襲う偏見、差別の感情は大きい。評判の悪い正常人を凌駕する「非難」、「中傷」、「蔑視」、「差別」の言葉が浴びせられ、または、明らかな差別的仕打ちを避けられない。「何故、申告しなかった・・・」と問う人は多いだろう・・・しかし、その理由を知り、あるいは、その尻馬に乗っての発言であるだけに、その言葉は、悪質である。

「クルマの運転も出来ないのか・・・」・・・この裏に、飲酒運転の絶えない理由が潜んでいる・・・と、私は、私の体験から確信する。つまり、私の場合・・・「酒」が好きだから・・・しかも、家での「晩酌」はしないのに、帰宅の途中で、ふらりと、その日の仲間と飲むのが好きだった。仕事の同僚と連れだって飲みに行くことは、41年間、絶えてなかった私である。「資格を取っておけよ!」と、耳に「蛸」が出来るほど言われた。その中に「運転免許」も含まれていた。私は、その挑戦すらしなかった。「免許を持っていない・・・」の差別を全身で受け止め、完全にretire・・・酒、煙草、パチンコ、旅行(国内外)、そして、贅沢は、年間に何冊かの本と、半年に一回ほどの映画鑑賞に制限し、外食は原則としてしないことにした。お陰で現在、潤いある生活も15年間を過ぎて、日々楽しい毎日が続いている。言うなれば、「差別」されたことの余慶である。
しかし、働かねばならぬ若い人、中高年を含む、働かねばならない方には残酷な「差別」である。また、国家的には、大きな「損失」である。人間の才能が「クルマの運転」であるが如くに、誤って評価され、差別され、日常から排除されかねない境遇に貶められているのである。

身体的障害者を雇用して実績を上げている企業も多いと聞く。「分業」の効率化・・・これは、近代の思想ではなかったのか・・・その専門家を深く追求するなら、更なる効率を追求出来るはずである。何時までも、フォードの流れ作業的分業に囚われて、新しい、分業の思想が生れていない、理解しない隘路が、弱者、あるいは「病」を得た人を犠牲にし、その労働不足を、健常者と言われる人々にしわ寄せして、「過労死」を生みだし、「自殺者」を増やしているのではないか。現代には、現代の「仕事の分別」があり、「作業の差別化」があり、そのsystem化の思想があるはずであり、なければならないはずである。
人間の姿をしていれば、全て同じ様に遇する・・・これを「平等」とは言わないし、「機会均等」とも言わない。人は、その個人の意識、意志と、その能力を可能な限り生かす思想があるものだとの前提に、その個性が生かされるべきなのである。「そんな呑気なことを・・・」と不平を言う企業家には、企業家としての資格はない・・・今回の様な事件の陰に、意図的なものが発見できれば、当然、司直の手で裁かれるべきであろう。
「危険」を廃しては、避けては文明の進展はない・・・それは、人間が「文明」を手に入れて以来の「運命」である。その中に傷つく人もいる・・・能力を失う人もいる・・・また、不幸にして、全面的には対応出来ない人もいる・・・・しかし、全てが「人間」なのである。そして、その方々の為にも貢献しなければならないのが「文明」であり、貢献して貰わねばならないのが「文明」なのである。

悪意ある差別は・・・不文律の犯罪である。その差別を軽減するのは、一つには「法」にあるとは言え、究極の所、一人一人の思想であり、理念であり、己への責任でもある。これを、政府の責任として、自らの責任から引き離してはならない・・・自戒を自らに課しながら思う。
何故、免許更新時に申告しなかった・・・非難するより、その裏に存在する、自らの「差別意識」に、思いをいたすべきであろう・・・と自戒を含めて思う。