専門家と言うタレント・・・ということ

「断層、断層・・・」と喧しい。所詮、この列島に住む者は、「断層」とは無縁ではないし、そもそも、この列島の誕生が、「断層」を生成するenergyとは無縁ではないはず。先日、台湾の200程の村の「深層崩壊」の映像をTVに観たが、日本の各地でも、山が押し寄せ、崖が崩壊し、時に、地面から水が噴き出す。原因は、概ね、人間が生活しているところに原因があるのだが、己が生活の場を決めるのに、人為的な「土地価格」を判断のよりどころにしているのだから、その災害を政府の所為にすること自体が、非常識である。中には、深い「杭」を打ち、あるいは、表土を入れ替えたり、可能な限りの手段を講じて、「住」の安全を確保している方もいるが、その周辺が、土地の、当てにもならない安全神話に基づいて住んでいるのだから、永久に安全が保障されているものでもない。むしろ「愚衆」の話の中で、「愚衆」としての生き方が望ましくも見えるものである。
件の台湾の映像に付されたcommentでは、数千年前に、深層崩壊を起こした形跡が発見されたとのことであるが、今回の映像が、200個余りの家族の生存者が一人もないと言うから、その数千年前の深層崩壊の結果が同じで在ったとすれば、人類が、人間が、知り様もなかった「歴史」でもあり、其処に住まざるを得なかった人々の不運としか言いようがない・・・と、結んでいたと思う。

もっと専門家の意見を聴け・・・・と、色々なwide showで、commentatorが、まことしやかに云う。しかし、専門家がtalent化している現在・・・commentatorの誘導で発言するのだから、真の専門家の発言にはなっていない。加えて、司会のtalentが必ずしもしっかり、学んでいて、己の見識をもているとは考え難い。Talent業の中で、向学を志、それなりに学んでいるtalentもいないでもないが、それらのtalentは、既にChannelの世界からはお呼びでない人物が多い。仕事が暇になったから学んだのだが、その学んだ知識、そして身につけた見識が、多少でも役に立つ時点では、既に忘れられているのである。
そして、今売れっ子のtalentの前には、我・talent足らんとする、賤しき研究者・学者が、したり顔で、現れる。

福島原発が事故を起こした時、駆け付ける研究者が不足したのだと・・・ある週刊誌が報じていたはずである。つまり、原子力発電所を建設する場所も殆どない現状で、これ以上の増設はあり得ない・・・原発への関心が薄れている現実に無関心だった・・・そのことが、今回原発事故の影響の拡大を惹起したと、考えるのが正常な判断であろうと、私は考える。言うなれば、安全に過ぎた原発であったが故に、住民も、文化人も、科学者も、運用者も・・・全てが無関心になっていた・・・と、言う判断が正しいのである。
「経験に学ぶ・・・想像力に基づく疑似体験の論理化にまなぶ・・・」しか人間の能力には許されていないと云う事である。つまり、私も諸兄も、続く世代のモルモットとして、生存の価値があると言うこと・・・・そして、現代の吾れも、先立つ世代の、その恩恵を受けて現在があると云う事である。
日々研鑽、日々研究・・・断層が危険であることは知識である。しかし、列島全土に存在する断層なら、その備えを考えるべきであるし、備えればよい・・・10年、いや、100年、1,000年を要しようとも・・・原発が危険なのではない。化石energyの根絶に伴う人間の争いが危険なのである。文明が、地球の北に発展したのは、発展しなければ生きていけなかったからであろう。山に行けば、生き物があり、海に行けば、獲物が取れる・・・雨は潤沢に降り、洪水は逃げれば良い・・・更に言えば、川さえ作らねば、洪水すらない・・・そんな世界で生きていれば、後は「戦争」しかない。しかし、他人の物を欲しがらず、他人を奴隷にする必要もなければ、「戦争」すらが不要になる。そんな世界が現代に存在するなら、それこそ、其処を征服するべば良い・・・原発不要(永遠に)論者の発想の陰に潜む「残忍性」であろう。

文明とは、その扱い方で「危険」なものである。その危険性を克服しながら、今日の文明は存在していることを忘れてはならない。原発にしてしかり・・・・機械・構造的危険性は、perfectは無理でも、一定の限界で、その安全性を確保かのうであろう。また、操業のsystemの安定性、あるいは暴走を止めるsystemの構築も可能であろう。また、大事故に至るまでの「停止」のsystemも可能であろう。勿論、人為的には限界がある・・・その限界を極めるのは人智である。今回の「非常電源装置」の問題も、その事故の重大性を学んだ今日、同じ発想で継続されることはあってはならない・・・日々の研鑽こそが、危険回避の最良の方策であろう。
タイタニックが、何故沈んだか・・・氷山を避け得なかったから・・・その文明は存在しなかったか・・・事故を避ける文明も存在した、そして装備していた。また、犠牲者を少なくする文明も準備していた・・・しかし、十分ではなかった。何故なら「不沈」という神話があったからである。戦艦大和も、「不沈」の神話を抱きながら沈んだ。何故なら、「不沈」の該念が、物理的真実を無視したものだったからである。
原発もまた同様・・・・非常用電源は存在した。しかし、作動の前に電源が不能になった。何故、電源が不能になったか・・・電源に関する装置の全てが津波に破戒されたからである。津波に破戒されない「電源設備」・・・体験不足の設計の依るものである。
勿論、役立たずのbent・・・もまた、人間の浅知恵であり、恐怖に押さえられた良識の敗北ではあった。勿論、原発本体の改良、安全性の向上、あるいは、無害化への努力も必要不可欠であろう。しかし、何れも、原発なくして、研究の方法も、安全へのapproachも不可能であろう。「断層」への対策に比べれば、随分と軽い問題ではないか・・・。良識とは、勇気があってこそ生きるものである。talent学者、talent報道に惑わされて、明日を見失ってはならない・・・と、私は考える。