本音の論理・・・・

基地は国外移転、少なくとも、県外移転・・・を掲げた鳩山由紀夫には何の戦略もなかった。ただただ政権が欲しかっただけ・・・恐らく、沖縄県民も、あるいは本土の日本人も、政治と言う生体の中に潜む、「秘約」に密かに期待し、この鳩山由紀夫の暴言に適切な反論の出来ない自民党の体たらくから、「何かある・・・」と期待したのが、民主党政権の誕生だった。

恐らく、米軍基地の存続が、沖縄の経済振興の必要条件と考える人々の心胆をさむからしめたものだったろう。以前から、基地反対運動、基地撤去のdemoは、沖縄以外の「派遣」が多い・・・時には、半数を超えるとまで言われながら、mass communication、mediaが瞑目してきた実体だったのではないか・・・東日本大震災の復興への道筋が見えないのも、「本音」と「建前」のせめぎ合いが続いているからだと・・・TVの映像からではあるが、感じるものがある。少なくとも、情緒的な「建前論」が、再建に関する討論を封じ込め、具体的な「案」の提案えお封じているのではないか・・・そんな感じだと思っていただければ分かりやすいだろう。例えば、ある提案に、「故郷を捨てるのか・・・」と糾弾されれば、恐らく、再建・案の幾つかは、その瞬間に凋んでしまうだろう。

沖縄県商工会議所連合会のtopが、普天間飛行場の名護市辺野古への移設推進の為に訪米・・・と、言うnewsの活字が躍る。決して、普天間の県内移設に、島ぐるみで反対している様を見える・・・mediaが伝える・・・
例えば、普天間飛行場の周辺の、写真風景・・・時系列に並べれば、「危険」は潜在するだろうが、ここに住むことのmeritが存在することは容易に理解できる・・・私の様な「へそ曲がり」には、あるいは、移転補償金目当ての住民か・・・と疑ってしまう。「地主」の多くは、東京でマンション暮らし・・・という、噂を信じたくもなると言うものである。
また、沖縄に米軍基地があること・・・中国を筆頭に東南アジアの諸国が異議をとなえているものでもないし、撤退を求めているのでもない・・・寧ろ、東南アジアの諸国にとっては、潜在する日本の軍事行動への抑制として必要だと考えているだろうし、昨今では、中国の横暴を少しでも抑えて欲しいとの願いもあるだろう。この基地の存在が、東南アジア地域の平和を、心理的に、物理的に可能にしているのか・・・。
また、米軍基地の存在が、この地域の安全を保証することで、大量の世界の観光客が押し寄せる。あるいは、若い学生の一つのアジアを学ぶ拠点になる・・・我々が「観光」と言う言葉を口にする時は、一泊、二泊の通過的な観光を考えやすい・・・中国、韓国も似たりよったり・・・が、欧米の観光客は、その生態を大きく異にする・・・一ヶ月、半年、長い観光客は一年、二年というのも珍しくない。太平洋の波を静めて、世界を交流させている「米軍基地」の存在は大きい。大西洋は、争いの歴史も古いが、平和な海としての歴史も長い・・・ドイツが、二度の世界大戦に勝利できなかった原因も、大西洋にドイツの覇権を許さない、米英、北欧の諸国の意志がなさしめたものであると、私は考える。沖縄の「米軍基地」とは、そんな存在であると、ちょっと立ち止まって思考すれば理解できることではないのか・・・思考停止、付和雷同、そして、青臭い観念主義・・・mass communicationもmediaも、もう少し、報道の平衡感覚を養ってもらいたいものである。

原発水俣・・・私は、同じ様な問題を孕んでいるのだと思う。「文明」の後ずさりが、己に利となることはない。「理」のないところに「利」は存在しないのである。当面、慎重に原発を再開させる・・・私とて反対は言わない。しかし、恐らく、数百年先には、原発の存在なくして、民意の維持は不可能である。曽野綾子が力説するごとく、「電気」は民主主義の根源なのである。上手に発電出来て、不自由なく使えれば、誰にでも、公平に分配可能なenergyなのである。例えば、石油を取り合うより、電力を全世界に送電するsystemを構築することができれば、地球から、あるいは抑圧的な政権は姿を消すだろう・・・理想論ではあるが・・・。

誰とて、perfectな論を論じることは不可能である。故に討論が必要になる。討論の準備として、議論を煮詰めることも必要かも知れない・・・しかし、何よりも大切なことは「本音」で語ることである。間違いは、気がつけば修正すればよい。ただ、妄想的な理想論が、まさしく、「本音」を外れた「建前」論であること・・・議論、討論から排除されるべき「音」であることを互いが認識しなければならない。

クルマがなくなれば石油は要らない・・・ごもっとも。そこに欠けているものは、「クルマがなくて、君は生活が出来るのか・・・」と言う思考である。「高速道路は無駄である・・・そんなに早く走って、何処へ行くのだ・・・」と、時に人気を博する言説ではある。しかし、己の手元、足下、衣食住・・・そのcostが、高速道路の存在で、我々に平等に「利」を齎していることは、「思考」というstageがなければ理解できないことである。

Perfectに「本音」を語ることは、もし可能な人がいるとしたら、それは数学者だけだろう。「数学」とは、思考の完全無欠な蒸留の結果だと思うから・・・。
今、自分が考えている事、論じている事が・・・「本音」であるか、否か・・・これは、自己の気付きであり、他との討論の中で生れる「思考」の結果であろう。何処かで「本音」を外れて、己を通す為に「建前」で虚偽を主張しているのではないか・・・その反省を胸に秘めて、今日も「本音」を語ろう。