竜巻・・・破壊出来ないのか・・・・?

九州北部では、めったにない事だが、海岸部に50年も住んでいると、体験がないものでもない。博多のビルの中で行事に参加して、田園部のわが家に帰宅してみると、屋根の一部の瓦がなくなっていた。まだ、増築した時の棟梁が健在だったので、即刻補修していただいたが、その頭領も引退した今・・・同じ目に遭うのは嫌だな・・・そんな事を考えながら、TVのnewsに釘付けになっていた。
前に、宮崎が襲われた時、何度も体験をしているらしい古老がTVのカメラに語る姿に、人間は、同じ失敗を繰り返しながら、余り利口にならないのか・・・等と、メル友と交信したものだったが、その失敗の損害を埋めて余りある「利」があるのだろう・・・そんな結論に達した。今は、殆ど、その形跡をみることも難しそうだ。

しかし、今回の被害は、宮崎の被害とは比較にならないようだ・・・何しろ、それなりに「人家」の密集地帯を、竜巻が駆け抜けた・・・そんな、光景である。これが、東京の都心部を駆け抜けたら、どの程度の被害になったのだろう・・・恐らく、ビルの谷間の木造家屋は、人間ごと、大空に巻き上げるのではないだろうか・・・。東京の都心部の「熱」は、今回被害地の数倍、数十倍だろうかた、小さな寒気が流れ込むだけで、大きな竜巻が発生するのではないか。都市の大掃除と思えば、直下地震に備えるideaを生みだす契機になるのかも知れない。

木と紙の文化・・・壊されては再建し、流されては再建する・・・この列島の、ethosも、この環境に生れたものであると理解するならば、地震津波も、はたまた竜巻も、大騒ぎするに値しないのかもしれない。泣き声も、怨差も・・・時間が静めてくれるだろう。政治の無策も、諦めにかわるだろう。それが、この列島に生きる人間の知恵であり、忍耐である。その中で、政治が邪魔をしなければ、貧しいものは貧しいなりに、豊かな者は、豊かなりに・・・その生活を取り戻す。被害に差別はないし、加害者(自然)が差別するわけでもないのだから・・・しかし、再建の段階では、差別があり、不公平が生れ、結果としての格差が生れる。その差別、不公平、格差に打ちひしがれるか、否か・・・これは、選択であり、忍耐であろう。

もし、それを厭うならば、それは政治の介入を受け入れなければならず、自らの発言力を養わねばならない。
例えば、全てを、竜巻に耐える頑丈な集合住宅化する。あるいは、そのCourseを配慮した・・・竜巻に通路を開けて、住宅への被害を最小限に抑える、家屋の配置とする。自分の土地を削って、竜巻に道を譲る・・・そんな意識が生れない限り、再度の竜巻被害は必至である・・・嘆くに当らない。
個人・個建ての家を望むなら、他人の緊急非難も可能にする様な、地下室を義務付ける必要もあるだろう。今回の、少年の犠牲・・・家の耐久度が、もう少しあって、地下室等の、確実な避難場所が存在すれば、失わなくても済んだ「犠牲」だった。決して、運が悪かったのではない。大人達の無知の犠牲になったのだと、考え、反省し、新たな街作り、家作りを考えるべきだろう。

津波にしても、竜巻にしても、極めて「地勢的」な要因が、その大きさ、強度を決めているのだろう。土地を選ぶ・・・危険を孕んだ地域で、個人が、個人で土地を所有しようとすれば、多くは住めまい。土地を有効に利用して、土地のcostを引き下げて生活しようとすれば、それは共有化しかない。そこに必要なのは、個々人の「理性」である。

この地が、どの様に復活するのか・・・楽しみにしたい!

追記・・・積乱雲にmissileを打ちこんで、積乱雲を破戒できないのか、地上、海面に伸びてくる「渦」を、切断できないのか・・・知識のある方のコメントを期待しています。