そう簡単には終わらないでしょう・・・小沢一郎 殿

国民の皆さんが、どう思っているかに私の関心はない。陸山会の不透明さが、何故、ことある毎に世間の話題になるのか・・・その不思議である。政治団体は、色々あるのに、「何故?」。そそて、今回の主旋律である「4億円」である。検察は「謀議」の有無を「主旋律」にしたようだが、主旋律ならぬ旋律を、裁判で鳴らしたために、少なくとも、私には、またっく理解できない裁判になった。ナチの幹部が某所に集合して「謀議」を重ねる・・・面白い映画だった。その主題は、何親等をもって、虐殺・抹殺の対象とするのか・・・謀議の主題は、至って簡略なものだった。しかし、ニュルンベルグ裁判で、事細かに全てが明らかにされたのではない。謀議に参加して、直後に自殺した人類学者、社会学もいたのである・・・その重さから、殺人・収容所の所期の目的が何であったのか・・・それが、謀議されないで、あれほどのナチの幹部が集合したのか・・・人類学者が、社会学者が、哲学者が召集されたのか・・・ヒットラーでさえ、ガス毒殺の対象としかねない謀議が行われたのである。しかし、ニュルンベルグ裁判の大半の時間は、その立証に費やされたのではないか・・・物証がどれ程のものだったのか・・・映画では描き切って居いなかったと、私は思う。
謀議の実証は難しい・・・例え議事録が存在しても、改竄もされているだろうし、作為的に作られることもあるだろう。その存在自身が、隠蔽の手段となるからである。しかし、「謀議」を立証すのは、本体の「民族浄化・大量虐殺」を裁くことにあったのであって、決して「謀議」が主役の裁判ではなかったのだと、私は考える。

そもそも、4億円が小沢一郎の「かね」であることは明らかであり、その収支報告書の記載が、怪しいのである。そして、責任者が「見ていない・・・」との弁明・・・こんなことが許されること、それを裁判官が認めることに、その怪しさが明らかである。
ニュルンベルグの倣っていえば、裁かれるべき主体は「4億円」の被透明性であり、それが、政治的に如何なる意味を、持つかということなのである。「4億円」の処理を秘書に命じる・・・秘書が、その記載を違法に行う。その「違法記載」の関係書類を小沢一郎が承認する・・・素人目には、この時点の、この行動こそが「謀議」だと考える・・・これが、世間の常識であり、司法に問われるべき不正の実態であると考えるべきだろう。
「一審」は、「謀議」の実体的存在を認めながら、それを判決のstageで無視して「無罪判決」を下した・・・私は、報道を読みながら、聴きながら思った。上告は当然であろう。

昨夜の「TV11」の司会者が、岩手県の県民が選んだ「小沢一郎」を、裁判に懸ける事が許されるのか・・・等と、とんでもない言葉を発していたが、guestも、それに同意していたのには驚いた・・・私に言わせれば、県民が選んだのではなくて、県民が騙されたのであり、その犯罪の方棒を担がされているのかも知れないのである。こんな、評論家、識者、あるいは学者の存在も、民主主義、言論の自由な社会の隘路として認めざるを得ない・・・それだけに、庶民として、我々の、私の姿勢、見識が、日常的に試されていると言うことだろう。
二審で、判決が、あるいは変わらないかもしれないが、疑わしき事象の掘り下げを期待したいと思うし、私も、しっかりと学んで・・・悪事をではない・・・政治家への、新たな視線を考えたいと思う。