太陽グラス・・・・

「月を喰う 黒い地球の 上に立つ 陰をなくして たたずむ我が」・・・もう10年程もまえになるか・・・その時、夜の散策の途中に浮かんだ一句・・・「NHK・短歌」で、佐々木幸綱先生にとっていただいた・・・NHKが印刷してくださったボードは、私の宝物として、私自慢の本箱の中に鎮座している。その時も、これが「見おさめか・・・」と思ったものだが、その後に「直腸癌・4stage」だったにも関わらず、こうして生きている。そして、金冠日食を見ることが出来るらしい・・・どんな短歌が浮かぶだろう・・・最近は、勉強していないからな・・・そんな反省は脇において、早速「太陽グラス」を購入。
最近の新聞に依ると、福岡県では「金冠」にはならないのだとか・・・世の騒ぎに騙されたのか・・・年甲斐もなく・・・半ば、悔しさである。

TVのnewsでは、直接太陽を見ないように・・・太陽を眺めた途端に「失明」するがの如き宣伝である。私は、小学生の時に、遠賀川の土手だったかた、金冠日食を観察・眺めた記憶がある。「太陽グラス」などと言う洒落たものはないから、概ね、学用品の「下敷き」だった。粗悪で、厚手の下敷きだったから、太陽観察には適していたのだろう。
最近の下敷きは薄い・・・の印象が強い。自ら使うことはないのだが、\100shopで、半ばnostalgiaに魅かれて手にする時の感想である。しかし、下敷きを持たない子どもの為に、親や教師が、透明ガラスの破片に「煤」を塗ってくれたものだった・・・私は5,6年性にもなっていたので、自分で、仏壇の蝋燭を引っ張り出して、煤を張った記憶がある。学校に着いた時は、半分位が、はげ落ちていたことも・・・土手で、子どものガラスに、やはりローソクで、煤を張る教師の姿も、目底に残る記憶である。

TVのnewsを視聴しながら、そんな知恵を何故教えないのだろう・・・私の不思議である。土曜日授業の復活、ゆとり教育の停止・廃止が、mediaを賑わす。しかし、その様な先人の・・・と、言っても私の様な「生き神」もいるのだが・・・知恵を子どもに体験させることも必要なことではないか・・・・ゆとり教育の出来る教師がいないから、ゆとり教育を止める・・・本末店頭である。また、金冠日食が月曜日であってみれば、日曜日に、手製の「太陽グラス」を作る工夫をさせることも、立派な、土曜日、日曜日の宿題ではないか・・・親に、その力がないことは、私も、百も承知である。しかし、「詰め込み教育」が、大人になる子どもの成長を妨げていることも事実であろう。教室が荒れる・・・子どもが潜在的にも、「学ばない危うさ」を感じ取れば、教師が自殺するまでの事態にはならないはずである。
古代中国の「寺子屋」、江戸時代の「寺子屋」・・・それを描いた「絵」には、教師を困らせる子どもたちの姿が沢山描かれている。世界に先駆けて庶民の子弟が教育を受けることの出来たこの列島なのである。貴族の子どもだけが教育を受け、貧しい家庭の子もには、「ジン(酒)」で、瞬間的な元気を付けて働かせ、アル中の成人を育てた、イギリスや、古代ローマの様に、ギリシャ奴隷に教育を任せた国々、民族とは、我々の御先祖は違うのである・・・もう少し、誇り高く、学校教育が出来ないのか・・・金冠日食の騒ぎの中に思う事である。

太陽グラス・・・無料で支給する・・・本来、人の手を煩わせた「物」には、それなりの対価を支払うべきであろう。親の負担がなく、子供は、「只・・・ロハ」で手に入ると、思い込み、その後の成長のethosになる・・・こんな教育が、役に立つ人材を育てる筈がない。恐らく、心ある父親、母親は、ガラスに煤を張って、子供に与えるのではないか。Nostalgiaであるだろう・・・そのnostalgiaが、伝承であり、先人の知恵に触れる機会でもある・・・そんなことを考える教師は居ないのか・・・父兄も、そんな教師を、子供の為に探してあげるべきではないか・・・アメリカ教育環境が、その様な時代を経て今日があることは、西部劇映画の教えてくれるものなのだが・・・西部劇映画の低調・絶滅が、この列島から「男」の空気を消滅させていると・・・云わずもがな・・・か。悲しいことではある。