旭天鵬・・・37歳の優勝

日本人大関の誕生を焦った結果、大関の力不足・・・特に「琴欧州」、「日馬富士」・・・に加えて、二人の日本人大関の力量が足らなかった・・・その隙間を縫って、真面目な旭天鵬が、彼らしい成を収め、「優勝」の栄冠を手にした・・・と、言うところか。
琴欧州の欠場も、4敗力士のchanceを一瞬にして失わせしめてが、結果的には、単純な優勝決定戦になり、旭天鵬の優勝も、単純な美しさがあって、「結果良し」というところだろう。

前頭を上がったり下がったり・・・そして、一瞬のchanceを逃さなかった・・・「幸運」を掴んだ優勝だが・・・「優勝」とはそんなものだろう。野球にしろ、ゴルフにしろ、はたまたsoccerにしろ、絶対的な強さで優勝・・・頂点・・・を極めることはないのではないか。何処かに、破綻の切欠があり、破綻に繋がる油断があり・・・それを謙虚に修正しながらの一挙手一投足。ここに、あるいは栄冠のchanceがある・・・その見事な手本であったと思う。
37歳・・・プロレスでは、70歳を超えるplayerも存在するようだが、其処には、我々には見えないruleがあることを伺わせるものがある。つまり、showなのだから、その妙味、美、技術を堪能するsportsなのだろう。しかし、相撲は、技と技術、そして礼を見せてくれる・・・最近、また仕切りが多少疎かになっている兆候が見えるが・・・その上での「勝負」であり、勝負の一つ一つが、力士の生命、生活に掛かっている・・・また、力士の美しさを保つ要因でもあるだろう。

しかし、身体のあちこちに貼り物をした力士の身体を見ると、年間6場所制が果たして良いのか・・・と、疑問にも思う。病を押して土俵に立つ、怪我を押して土俵に立つ・・・結果として、何場所も不本意な土俵になり、見る側の気持ちを削ぐ・・・6場所制を取るなら、病、怪我の治療の為に、人場所はゆっくり、番付の心配をしないで、土俵が務められる配慮も必要なのかもしれない・・・そんな事も考える。

大関陣」の不甲斐なさ・・・おそらく次の場所までの「話題」になるのだろうが、今回は平均して成績が悪かった・・・一面で実力伯仲でもあるのだろう。白鵬の相撲が、その典型ではないのか。私如き素人の弁と言うなかれ・・・彼も、今後の相撲生命の為に、多少の取り口の工夫を試みたのではないか・・・初日の“あみにしき”との対戦も、勝てる体制の時に、一挙に攻める・・・多少、己の体制が崩れても・・・との意識が勝ったのではないか・・・その他の、対平幕大戦の負け・・・やはり立ち遅れれば敗戦に繋がる・・・白鵬自身が、自らが万能ではないことを悟った今場所だったのだろうと思う。おそらく来場所からは、従来の相撲mannerに立ち帰り・・・初心に帰り・・・鋭い立ち合いの相撲を見せてくれるだろう。しかし、白鵬の相撲生命は縮むかもしれないのだが・・・。

旭天鵬に戻って、臥薪嘗胆・・・辛抱、忍耐、努力・・・。就職しても、3年を越えられない若者は「範」とすべきであろう。世の中に、自ら望めば、それが天職である。偶然に与えられれば、それも天職である。名人芸までいくのは、あるいは「天性」かもしれない。しかし、最後まで踏み止まれば・・・己を超える者がいなくなれば・・・傲慢だが、己が頂点である。そして、己を超える努力が求められる・・・これも「天の意」である。
就職の冬の季節と言われながら、小企業は求人難・・・・採用に値する人物がいないのも真実なのである。つまり、景気が良くなるまでの「腰かけ」に終始するような人物を企業が採用するか・・・そんな傲慢なmannerは一瞬にして見破られる・・・「大人」を見くびってはいけないのである。許されないのである。先人を、大人を見くびる所に、自らの「居場所」はない。職業に貴賎なし・・・とは、実はそのことを言うのである。如何なる職業、仕事でも、それを「腰かけ」とした時、君は卑しくなる・・・遠くの仕事が美しく見えても、近寄れば、その中に入れば、「あら」も目立つ・・・そして、そこから見る他の仕事は美しく見える・・・最後は、「あの世」が美しく見える・・・そして孤立する。

今回、旭天鵬の優勝が、日蒙・友好40年の節目であり、自身の初土俵20年目の快挙とあっては、その意義は深い。準備された「日」ではなくても、天の配剤とは、角の如きものなのである。過して来た時間、歩いてきた道、泳いできた海・・・常に今の旭天鵬の背中を押したのは、その過去の旭天鵬だったはずである。今日を生きるということは、今日の「波」を起こすこと、そして、その波は、明日の己に、さらなる明日の為の波を起こす・・・今日の己に、昨日の波を遮断して、明日の己はない。37歳と言う年齢・・・20年前の「波」・・・つまり覚悟が、今に生きて存在して、この栄冠がある・・・我々は、その姿に、己の栄冠を思う。表彰される舞台はない、称賛の声尾もない・・・しかし、今日ある吾は、栄冠の吾である・・・老いには老いの栄冠があり、老いたる故の称賛がある・・・神の称賛の声が・・・・。

先には、魁皇が、長い土俵人生を終えた。長い土俵・・・それは、「真面目」が齎せてくれるものである。真面目な土俵とは、真面目な日々、真面目な人的な交流、真面目な生活等々が、齎してくれるものだろう。誰もが、手にする栄冠ではない。それだけに、選ばれた栄冠であり、挫折を味わわざるを得なかった人々を励ます栄冠であり、明日への勇気を与える栄冠でもあるだろう。決して「運」ではない。シーナ・アイエンガーが説く「選択」の精神である。恐山の高層は説く・・・「前は、お前が作ったのだ・・・」と。つまり、言葉も知らず、文字も知らず、思想もなく・・はたまた、希望もなく、全くの「無」で生れて来て、そこから始まった「己」ではないか。今のお前は、全てお前が作り上げた「己」なのだ・・・と。吉本隆明は言う・・・「何の為に生れて来たのか・・・それに答えが出来た時・・・人は死に頃であり、幸せな人生を識るのである」と。
私はいま、56年前の選択の場に41年間過し、いま、その余波の中に漂っている・・・その選択の結果で生れた「私」を見失うことなく・・・そして、旭天鵬の「栄冠」の意味を考え、祝福を与え、更なる、旭天鵬の出現を心待ちにしている・・・幸せである。